一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

うん、うん、

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谷崎精二(1890~1971)


 早稲田の文学部で(他学部の事情は存じません)、冠詞も枕詞も付けずに、たんに谷崎先生と申しあげたら、それは文豪谷崎潤一郎のことではなく、弟の谷崎精二先生を指す。学部生のあいだはそうでもあるまいが、大学院生だの助手だのでいるうちに、恩師がたと話す機会が増えるにつれ、いつか自然とそうなる。
 慶應義塾の皆さんが、会ったこともない福澤諭吉を、福澤先生と称んでおられるのと似た気分かもしれない。

 私は院生も助手も経験していない。たゞし留年また留年で、学部七年生までやった。学科の壁を無視して遊び回り、並の学生の何倍も数多くの恩師・先輩のお世話になった。後年、渡世の巡り合せから、九年間ほど教員も務めた。で、お会いしたこともないのに、「谷崎先生」が身に付いている。
 文学部では(他学部の事情は存じません)、仮に教団に例えれば、坪内逍遙を開祖、島村抱月を二祖、谷崎精二を中興の祖と考える。逍遙先生、抱月先生である。大隈重信は「大隈侯」となり、先生ではない。

 直接ご指導いただいた教授がたは、むろん先生だ。加えて恩師のそのまた恩師についても、たくさんの逸話や人となりを伺って過すから、自然と自分にとっての先生のようにも思えてくる。山口剛、会津八一、窪田空穂、稲垣達郎といったかたがたも、私には「先生」だ。
 が、今はその噺ではない。誰にとっても共通の、中興の祖「先生」の噺である。

 小説家としての谷崎精二は、若き日、葛西善藏・広津和郎らと同人雑誌『奇蹟』に集い、大正時代の文学潮流のひとつだった私小説系の作家の一人だった。今読んでみても作品は悪くない。かといって小説家として大成したとは申しがたい。なにせ実兄が、あの潤一郎である。相当なものを隣に持ってきたところで、どうしても見劣りする。
 たゞこの弟には、兄にない資質があった。英米文学者としてよく学び、学業優秀だった。個人訳『ポオ全集』などもある。

 大学人としては、文学部長も務められた。ちょっとしたボスだったわけだ。現在からは信じられぬほど、大学がのどかだった時代のこととて、若手教員の登用などについても、ボスの独断的な鶴のひと声で、さっさと決めていったそうだ。
 国文はダレソレ君、仏文はナニガシ君、哲学はダレダレ君、美術史はナニナニ君と、学部長による抜擢でどんどん人材が集められたという。数十年後それら逸材が、各専攻科で綺羅星のごとき名物教授となられ、世間からは早稲田文学部黄金時代とされるがごとき様相を呈するに至った。
 谷崎先生が、中興の祖と位置付けられる所以である。

 その谷崎先生の還暦だか、古稀だかのお祝いの宴が、大隈会館で催された。事前の連絡では、広津和郎が通風で足が痛むのを押して、熱海から駆けつけることになっていたが、到着が遅れていた。待っているわけにもゆかず、宴は進行。金屏風前の先生に、来賓のお歴々や後輩教授がたが、次々に祝辞を述べておられた。
 「広津先生、ご到着です」受付の大学院生から、耳打ちが入った。
 「えっ、広津が来てくれたって? それはそれは……おゝい、こっちだ広津ぅ」
 先生は席を蹴るように立上り、受付へと走ってしまわれた。
 おりしも話好きのフランス文学者、新庄嘉章先生のスピーチが佳境であったが、主賓は飛んで行ってしまい、ご自慢のスピーチは宙に浮いた恰好。文字どおり「眼が点」である。

 だれが谷崎先生とお親しいといっても、広津和郎には及ぶべくもない。学生時代から、大正文学の荒波を一緒にかぶった間柄である。ご到着早々恐縮ですが、なにはともあれ、広津先生からまずお言葉を、となった。その時の、広津和郎の祝辞が、
 ――谷崎は大学の仕事なんぞがたいそう忙しいと見えて、最近さっぱり小説を書かん。けしからん。なにをしてるんだっ。そんなこと、君がやる必要なかろう。さっさと人にまかせてしまって、もっと書かなきゃいかんじゃないか。
 出席者のあらかたは大学人である。会場には鼻白んだ空気が満ち、一同静まらざるをえなかった。
 が、谷崎先生は、嬉しそうに満面の笑みで、うん、うん、と頷いておられたそうだ。

 この取って置きの場面については、当日受付で案内係を務めていた大学院生から、じかに伺った。

月謝

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早稲田系御大そろい踏み。丹羽文雄浅見淵尾崎一雄

 絢爛豪華な兄潤一郎と、地味な私小説作家の弟精二。谷崎兄弟は外見も作風も対照的だ。父方と母方、受継いだ血筋の違いか。それとも稀にあるという、兄弟なればこその反発的対照かと、それまでは考えられてきていた。
 さにあらず、兄弟生育期の家庭内の空気の相違によると、視抜いて指摘したのは、浅見淵(あさみふかし)だった。潤一郎幼少期、家業は隆盛。日本橋蛎殻町の大通りに面した店には使用人も賑やかで、店前にはのべつ荷車が着いたり出ていったりしていた。
 が、祖父他界を潮目に家産傾く。精二幼少期には裏路地へと引越して、使用人もろくにない、暗い小店となっていた。家内の空気がガラリと変っていたのだ。

 作風・作柄と、作者の実生活との関連(または無関連)を深読みする能力には定評あった、文芸批評家の平野謙がこの指摘にたいそう感服し、「こういう読みにかけては、我が赤門は早稲田に一歩を譲る」と花を付けた。さすがの平野探偵も、舌を巻いたのだったか。
 申すまでもなく平野は東大出身、浅見は早稲田出身である。

 浅見淵が残した仕事には、小説も作家論もあるが、なんと云っても人物素描や回想録といった、文壇史と区分される諸篇が、飛び抜けて傑作だ。『昭和文壇側面史』『燈火頬杖』は名著と申してよい。文学への愛、その世界に生きる者たちへの興味が、ひととおりではない。しかも視点に洒脱さがある。書名のごとく「側面史」であって、正面史でないところが、独壇場だ。

 その『側面史』の一端。さんざっぱら文士たちの横顔を縦横に紹介した揚句に、「新宿のハモニカ横丁」「新宿マダム列伝」などという章がある。むろん酒場を舞台に繰広げられた文士たちの武勇伝を紹介しているのだが、ふいにこんな一節に出くわす。
 ――女性ひとりの身で新宿で十年酒場稼業を持ち耐えたならば、どんな高利貸でも無担保で大金を融通するといわれている。これに反して、男性の場合はそれからが危い~

 未成年がたのために、野暮を承知で、屋上屋を架しておこう。
 好いたらしい男も魔の手も含めて、男たちからの誘惑に毎日晒される女ひとり商売。そのことごとくを捌き、いなして、しかも気を逸らさせることもなく十年、店を保たせてきた女の根性と身持ちは、信用するに足る。金貸しにしてみれば、まず貸し倒れの心配は無用だ。
 けれどママさんじゃなくマスターの場合、男ってもんは、理想に燃えて、もしくは意地を張りとおして、十年辛抱して、やれやれこゝまで来ればとひと安堵という気が起きたころ、とかく間違いを犯す。

 念を押しておくが、これは文芸批評の一節である。
 どれだけの月謝を注ぎ込めば、こういう文章を書けるようになるもんだか。

老人食

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月並×手軽×安価×少量多品目=老人食

 ちゃんと食一回、適当食一回。一日二食を原則としている。
 他に就寝前の台所での一献が加わることもある。第二食が一献を兼ねることもある。
 机作業の一服休憩に、珈琲かカルピスを飲むが、口寂しくてオヤツを摘んだり、飴を嘗めたりすることが多い。本日のオヤツ予定は、ファミマのベビーカステラ。ひと袋およそ百グラム、三百六十キロカロリー

 昨日はめったにない来客があって、適当食ばかりとなってしまったので、本日はまずもって、ちゃんと食。生命の最低保障をしておく。
【方針】
 ●主食は昆布粥か茸粥。塩は使わず、とろろ昆布で薄味に。
 ●味噌汁を作る日には、鉢物二品減らす。(本日はその要なし)
 ●玉子は一日一個。調理法は問わない。
 ●肉類の大量摂取厳禁。たゞし皆無も厳禁。魚も少量にて可。
 ●そのぶん植物性蛋白質にて補充。納豆は常備品。
 ●少量・微量ながら毎日摂取するもの。
  (1)胡麻(本日は擦り胡麻を粥にトッピング)
  (2)海藻(本日は粥中昆布と若布酢、それにアオサ粉を粥にトッピング)
  (3)梅干(大なら二分の一個)
  (4)生姜(粥に刻み込み、酢の物トッピング、肉じゃがに炊き込み済み)
  (5)発酵食品(納豆、酢、漬物類)

 食前・食中にも、食後にも麦茶。胡瓜若布酢の三杯酢も飲み干してしまうから、椀物なしでも喉に不自由は感じない。たまの味噌汁が大ご馳走に感じられたりする。

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 むずかしいこと、面倒なことをいっさいしないので、完食後は葉っぱ一枚残らない。普段残るのは、魚の骨と梅干の種。本日はそれもなし。
【本日のゴミ】
 ●生ゴミ:胡瓜のヘタと尻尾。ピーラーでトゲトゲを削った皮少々。玉子の殻。
 ●ゴミ:納豆パックの内包装フィルム。ラップ少々。ティッシュ数枚。
 ●分別ゴミ:納豆パックの発泡スチロール。

 食後に珈琲。茹で小豆をスプーンに二杯ほど、嘗める。
 茹で小豆の蓋付小鉢が底を突いたので、新しい缶を開ける。分別ゴミひとつ追加だ。
 本日は乳製品皆無だったので、机に戻ってから、デザートヨーグルトの小カップをひとつ開けることになる。

カレーうどん

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 毎年この時期は、眠い。猛暑も山を越え、おやっ少し楽かな、と感じるころ、この症状がやってくる。夏のあいだ暑さに焙られた躰に、疲労が蓄積している感じだ。六時間睡眠では少々足りぬ体調となる。何時間眠ったところで、どなたにご迷惑をお掛けするでもない身の上だが、今日はご来訪者の予定がある。
 だというのに、寝過してしまった。通常の食事支度するには、いささか時間不足。カレーうどんで済まそうかと、ふと思い立った。

 カレーうどんを食すようになったのは、せいぜいこの十五年ほど前からだ。それまでは敬遠していた。蕎麦屋カレーうどんの先入観があったものだから、和風出し汁にカレー粉を溶くのは、コツを掴むまで案外たいへんかも知れぬと、腰が引けていたのだ。
 先入観から解放されるきっかけとなったのは、「南天」さんのカレーうどんだった。

 駅前に、立食い蕎麦うどんの名店「南天」がある。間口八尺奥行二間の小店ながら、長年繁盛している。
 私鉄沿線の駅前だから、ロッテリアなか卯、牛丼松屋、餃子王将、海鮮居酒屋、ラーメン店、百均ショップ。それに金剛院さまの山門前でもあるから花屋に果物屋。徒歩二分圏内に寿司屋、とんかつ屋、パチンコ屋、薬局、コンビニ、不動産屋と、ひと通りの店は揃っている。事業の常として、長続きせずに代替りや商売替えも、ちょくちょくある。
 だが、富士そばチェーンを始めとする名うての蕎麦・うどんの立食い店は出たことがない。専門家が立地調査をしてみれば、「南天」に太刀打ちするのは無理と、当然判断されたにちがいない。
 店は小さいが、それは厨房が小さいだけのこと。往来へ突き出された二脚の長テーブルに客が途切れる間は、ほとんどない。駅舎前の植込みの土留はコンクリート製の縁だが、「南天」御用達のベンチとして、住民には活用されている。

 最近引越して来られたかたや、たまたまお仕事でこの駅を降りられたかたに、ぜひとも申しあげたい。まず「南天」で肉うどんなり天ぷら蕎麦なりをご注文なさって、駅舎前の植込みの縁に腰掛けてごらんなさい。丼を傾けながら道行く人をご覧なさい。こゝがどんな町か、少しお解りいただけましょう。

 むろんこの小さな立食い屋が一朝一夕で、これほど地元民に愛されるようになったわけではない。シフト明けの店長が左手にゴミ袋、右手に炭挟みの姿で、駅前一帯のポイ捨てゴミや吸殻を拾って歩く姿を、地元民なら知っている。美味い、安い、早い。それ以上だと、知られているのだ。

 そのころ私は、冬は天ぷら蕎麦、夏は冷し若布蕎麦と、決めていた。品書きのすべてを試して、そこに落着いていたのだった。
 「今度カレーうどん、始めますよ。冬場だけね」
 「でも店長、あれは出汁の好みなんかあって、けっこう難しいんじゃないの?」
 「難しいことはしません。飯にかけてみて美味いカレーを作って、それをうどんにかけるだけ。簡単ですが、それが素朴で、一番美味いって結論です」
 いざお披露目の季節。たしかに美味かった。私は天ぷら蕎麦から転向した。

 で、私のカレーうどんは、レトルト・カレーに熱を通して、茹で上げたうどんにジャーッとかけるだけの、超手抜き食事。他人様にふるまうわけじゃない。時間がないときに、手早くエネルギーを補給するだけの食事だが、これが結構気に入っている。
 やってみて、特色豊かで高価なブランド・レトルト食品ほどよろしいというものではないと、判ってきた。白飯にかける場合との違いも、判ってきた。
 しょせんは老人の、健康バランス重視の食事であるから、擦り胡麻やおろし生姜や、梅や青海苔やで、うどんのほうにイタズラする工夫も重ねてきた。が、いまだ発展途上の試行錯誤中で、とてもとても定見に達したとは申しがたく、こゝには書けない。

平民

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戸川秋骨『隨筆 文鳥』(大正13年6月、奎運社)


 刺身を食して、魚はまずまずなんだが、惜しいことに包丁がいけないと云い当てるかたは、たまにはあろう。が、包丁を研いだ砥石の良し悪しまで、刺身の味から指摘した人が、江戸にはあったという。
 また京都には、賀茂川から柄杓で水を汲むさいに、流れに沿って汲んだ水で沸した茶と、流れに逆らって汲んだ水で沸した茶とを、茶の味や香りから、味わい分けた茶人があったという。

 いずれも戸川秋骨の随筆集『文鳥』に見える。秋骨の所見は、こうだ。
 ――嘘のやうな話であるが、若しそんな人があつたとすれば、それは不幸な人に違ひない。趣味性がそれほど鋭敏になつては恐らく苦痛であらう。
 ――凡そ智識が苦悩の始めである事は誰れも承知して居る、何事も幸ならんと欲すれば自覚せざるに限るが、趣味に於ても同様であらう。

 秋骨の平民主義ともいえそうな洒脱さの面目躍如だが、なぁに、この人、けっこうな粋人だ。ただし贅沢なもの、高価なもの、有名なものを好む気配はまったくない。ありふれたものに、たゞ上手に接した。
 ちなみに島崎藤村の自伝的青春回顧小説『春』において、北村透谷をモデルとする主人公青木の周囲に集う若者たちのうち、藤村自身をモデルとする岸本は有名だが、あと三四人の青年たちがある。その一人が、戸川秋骨である。

 英文学者・翻訳家としての本職以外に、能の鑑賞文もある。文人にして能の見巧者といえば、すぐに野上豊一郎が思い浮ぶ。野上の能評と秋骨の能評、なるほど、漱石山房自然主義とでは、たしかに異なる。

 小説家の阿川弘之さんは、志賀直哉を師と仰いでいらっしゃったから、白樺派の文豪たちはさしづめ、阿川さんにとっては師匠筋の叔父貴といった感じだったろう。ある時こんなふうにおっしゃった。
 ――里見弴先生は、たいそう食通でいらっしゃって、美味いものにこだわり、味によく気の付くかただった。いっぽう武者小路実篤先生は、全然こだわらない。なんでもいゝんだ。そこにあるもので腹が一杯になればご満足。そんなふうだった。
 ――味覚が文学に関係あるかとなれば、文学の高さ・価値という点では、いっさい関係ない。たゞ小説の彩りという点では、いささか違いは出るだろうねえ。

 ここでも武者流無頓着かと、感服した。武者小路実篤の馬鹿一もので、慌てて駆けつけ玄関に下駄を脱いで上った主人公が、帰るときには平気で靴を履いて帰ったりする。その後の文庫でも全集でも、訂正していない。桁外れなこだわりなさだ。こうまでされると、巨大な野放図に大自然への畏怖のような感情が湧き、お辞儀したくなってしまう。
 戦争末期、作家たちはおしなべて手足をもがれ、ひたすら息を詰めているしかなかった。しかし武者小路実篤のみはどこからも弾圧を受けることなく、『桃太郎』なんていう作品を平然と書いている。
 高見順が読んで、あゝまだこゝに文学がある、と云って、さめざめと泣いたとの逸話も残っている。

 こだわりと、こだわりなさと、こだわりなさへのこだわり。貴族性と平民性との、本当の在りどころ。老人一個の身の処しかたとして、簡単には片付かない問題が、こゝにある。

残暑

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 午前、散髪屋。珍しくも明日、来訪者予定。ゴミ屋敷状態は今さら間に合わぬとしても、せめて髪くらいは。
 マスターは噺上手。ご近所のワクチン接種状況、パラリンピックの話題選手、道路拡幅計画に伴って不動産関連の大手各社が盛んに近隣を徘徊している様子など、私の知らぬことばかり。浮世床とは、よく云ったもの。
 理容師さんにも、業界ぐるみでの集団接種の順番が回ってきたそうな。医療・介護関連の次に優先されてもいゝ職種のように思うが、そうでもないらしい。都庁舎の高層展望階が接種会場とのこと。まず入舎時に、次にエレベーター行列の順番決めに、降りてからも行列決めになど、合せて五回も証明書類をチェックされるという。
 「ほんの五メートル先に次のチェックポイントがあるんですよ。どうにかならんもんでしょうかねえ」
 「へーぇ、冷凍庫のコンセントが抜けてたなんてことは、何件もあるくせにねえ」

 頭は丸刈りだし、コロナ禍で顔を当らないから、手早く終る。お母さん(ご先代夫人)が、麦茶とお菓子を出してくださる。ひとしきり。まだ不整脈が完全には収まらず、近ぢか心エコー検査だという。覚えあり。私とは、以前の病院仲間だ。
 ティーバック方式の簡単麦茶を愛用しているのは、小生と同志。伊藤園よりセイユーのほうが渋みが強く、コクがあるとの、耳よりな情報をゲットした。

 頭さっぱりしたところで、少し歩こうか。神社境内に人影はない。広いともいえぬ境内だが、こゝに土を盛り土俵をこしらえて「わんぱく相撲大会」をやったなんて、信じられない。線路向うの小学校にも、強い奴がいたっけ。
 絵馬がたわわに掛る柵の隣りに、風鈴の柵が。当節こういうものも奉納するのか。絵馬といゝ風鈴といゝ、要するに家内健康と合格祈願とコロナ収束。ご近所にこの程度の祈願しか見当らぬことは、佳きことではないだろうか。
 気づけば、セミの声がない。季節が過ぎたのだろうか、それとも午前だからか。午後暑くなったころに、もう一度来てみるか、という気になる。

 ロッテリアに入る。かつてこゝはマクドナルドだった。「マック」と、池袋へ出て「タカセ」と、本郷三丁目まで足を伸ばして「麦」との三点をハシゴして仕事をした時代があった。肩掛け鞄に、本やら辞書やら帳面やら筆記具やら、いつも何をあんなに詰め込んでいたのだろうか。
 「麦」のカツサンドは美味かった。
 今、ロッテリアの座席はアクリルボードで仕切られているが、とにかく寒い。避暑を兼ねて長居する客を牽制しているのか。それでも受験参考書首っぴきで、勉強に夢中の若者たちがいる。俺は、まじめな受験生ではなかったなと、ふと思う。

 堪らず、四十分ほどでロッテリアを出て、カボチャとキュウリを買って、ひとまず帰宅。帰ってみれば、当然ながら暑い。やはり冷房は必要だろうか。シャワーを浴びに風呂場へ。壁にクモがいるが、お前に対して敵意はない。

 台所で出汁をとる。夜、カボチャを炊くつもりなので、それまで冷ましておく。午後になった。もう一度、散歩。丸刈りは気持ちいゝ。神社では、なあんだ、鳴いているじゃないか。盛りの時期とは比ぶべくもないが。
 この社のボスである茶トラの姿が見えない。定席の石階段の温度が、高過ぎるのだろう。まだ暑過ぎるような、確実に秋のような、なるほど、残暑か。
 もう一度、ロッテリアに入ってみようか、という気になった。

ご案内

――YouTubeチャンネル紹介(ご案内)――

 先般、口上にて少々申しあげましたが、お若いディレクター、ko-hさんによります、YouTubeチャンネルが開設され、まだ助走段階ではありますが、始動しております。
 画像・音声ほか編集いっさいは、ko-hさんにおまかせ状態で、私は声の提供、つまり気楽なお喋りのみを、担当いたしております。
 一部マニア向けの、地味な文学の噺ばかりですが、もしご興味おありでしたら、一度お聴きくださいませ。

 チャンネル名「隠居夜咄」(いんきょよばなし)で検索可能です。また私の名前「多岐祐介」から検索していただいても、到達できます。
 若者の果敢な試みを、どうかご支援いただきたく存じます。よろしくお願い申し上げます。