一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

一段

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 父の命日。十三回忌である。花長さんへ。金剛院さまへ。誰に云われたのでもない、自分で荷造りした肩の荷を、やれやれ、どうにかひとつ降ろした。

 一周忌も三回忌も七回忌も、法事らしきことはしてこなかった。親戚や生前ゆかり深かりしかたにご連絡して、時節がら内輪でやらせてもらうからと、形式的な内諾をいたゞいて、あとは独りで済ませてきた。遠方にお住いのかたも多いことだし、悪くない措置だったと思っている。父に先立つこと二年半だった母についても、同様にした。

 とはいえ参列者一人とはいえ、これも内輪の法事と云えなくもない。金剛院さまご本堂にて、ご住職様に回向していただき、お塔婆をお下げわたしいたゞいた。
 父の法事も母の法事も、毎年のお施餓鬼も、志主は私一人だが、溜れば溜るもので、墓石背後の塔婆立てはぎっしり満杯となり、今回古いものから順に、かなりお戻しさせていたゞいた。

 どういう経緯だったか、なんの情報に接したからだったか、まったく記憶にないのだが、両親他界後ほどなくから、十三回忌が済むまでは生きていなければならぬと、思い込んできた。根拠皆無の思い込みだ。七回忌の時には、マダマダコレカラという気に、なったものだった。
 一昨年の母と本日の父とで、やれやれ、自分で荷造りした肩の荷を降ろしたというのは、さような心持ちである。

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 石松寿司へも、近ぢか寄らせてもらって、節目のお礼を申しあげねば。母が外へ出歩けなくなって、私がどうしても仕事で留守にしなければならぬ日などには、出がけにひと声かけてお願いしておくと、夕方指定の時刻に出前してくださった。
 注文の寿司のほかに、煮物や和え物など、ちょいとしたおかずの小鉢を添えてくださったりした。親方のご配慮で、女将さんが腕を振ってくださったのででもあったろうか。

 互いの先代からだから、長い付合いにはなるわけだが、改めて報告とお礼を申さねばならぬところだ。
 近ぢかなんぞと云わずに、これから石松寿司で一杯といくか。
 いかんいかん。今日はこれから、ユーチューブの収録だ。あの途方もなく真面目なディレクター氏が、やって来る。一段落後に、また一段。

掲示板

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プログラム、チケット半券(1980.12.28.都市センターホール1階R列15番)

 女王様:お願い、ってどうしたらいゝの? だって、したことないのだもの。
 老兵士:まずこの娘さんの前に膝をついて、「どうか」とおっしゃってください。

 サムイル・マルシャーク作『森は生きている』。古くは劇団俳優座が日本での初演をしたようだが、長年にわたって劇団仲間の十八番演目となっている。十二月の風物詩のようでもある。ヨーロッパ各地にわずかづつ形を変えながら遍在するシンデレラ物語に、ロシア民話を融合させた、児童演劇の名作だ。

 大晦日の晩、お城では大臣や隊長や先生や、外国の大使らが年若い女王様を囲んで、年忘れパーティーの真最中だ。わがまゝな女王様が気まぐれを起す。
 「マツユキソウが観たいわ。だれか、採ってきてちょうだい」
 「陛下、この季節にマツユキソウは無理です。それにほら、外はひどい吹雪です」
 「いゝえ、どうしても観たいの。すぐ城下に触れを出しなさい。カゴ一杯のマツユキソウを採ってきたものには、カゴ一杯の金貨をあげます」

 村はずれの一軒家に、欲張りな母親と意地悪な娘と、けな気な働き者の継娘とが住んでいた。欲に眼がくらんだ母親は、森へ入ってマツユキソウを摘んでこいと、日ごろから森をよく知る継娘を、吹雪のなかへ追出してしまう。摘むまで帰ってきてはならぬと。
 おりしも大晦日の夜、人間などやってくるはずもない森の奥では、各月の精たち十二人が年に一度勢揃いして、かゞり火を焚き、動物たちをも呼び集めて、年越しの儀式をすることになっている。今年もどうやら顔ぶれが揃った。
 そこへ、来るはずのない人間が一人、身も心も凍えきった少女が迷い込んでくる。
 「さぁさ娘さん、火のそばへお寄り」
 いよいよこゝから、ロシア民話の神秘的奇跡の始まりだ。

 客席の子どもたちは身を乗出す。落着きのない子は席を離れて、舞台際まで歩み進もうとしては、お母さんに止められたりしている。

 この演目を十八番に仕上げたのは、演出家・俳優にして劇団指導者の中村俊一さんだった。飯が食えぬが通り相場の新劇をいかにして成り立たせるか。中村さんは、浅利慶太さんとは対極的な方法を採った。
 浅利さんの「四季」は、劇場を巨きくしたり、常打ち小屋を確保してロングランすることで、採算を取ろうと考えた。中村さんの「仲間」は、劇場に来られない、芝居を観たくても観られない、全国津々浦々の観客のもとへ、芝居を運び届けようと考えた。『森は生きている』は全国を回った。そして毎年十二月は、東京公演である。

 宝仙寺での、中村俊一さんの葬儀のさいに代読された、とある女性観客の弔辞が忘れがたい。
 ――私は秋田から集団就職で上京しました。言葉の訛りが恥かしくて、寮の仲間たちとも、あまり話が弾みませんでした。
 当時の愉しみはといえば、工場の休日に伊勢丹を観に行くことでした。買物なんかできません。あんなものがあった、あれはきれいだったと、憧れて、眺めて帰ってくるだけです。

 ――ある帰り道、近所の掲示板で『森は生きている』のポスターを観て、びっくりしました。かつて山の分教場の講堂で観たお芝居です。それまで私は「仲間」を秋田の劇団だとばかり、思い込んでいたのです。だからこんな小さな分教場にまで、来てくれたのだと。東京に本部のある、全国を股にかけて活躍する劇団だとは、想像もつきませんでした。
 私は知らぬうちに、佳いものを、一流のものを、観せてもらっていたのだと、気がつきました。寮へと走りました。同室の仲間たちの手を引っぱって、掲示板まで連れてゆきました。
 「ワタシ、これ観たんだよ。憶えてるよ。キレイだったよ。面白かったよ」
 それからはコンプレックスから解放されたように、よく喋れるようになり、寮にお友達もたくさんできました。

 ――当時は想いも寄らぬことでしたが、東京で結婚して、今も東京に住んでおります。子どもが三人できました。小学五年になると、『森』を観せに連れてゆくことにしています。おかげさまで、いよいよ今年は三人目を、連れてまいります。
 中村俊一先生、どうもありがとうございました。

 今年の十二月も東京のどこかで、劇団仲間が『森は生きている』を上演することだろう。たくさんのお母さんたちが、子どもの手を引いて、やって来ることだろう。

西向く侍

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ジョン・スタインベック(1902‐1968)

 ――大切なのはここまでやってきたことではない。西へ向って進みつづけたそのことが大切なのだ。
 ――やがてわしらは海に出た。それですべてはおわった。
                        『開拓者』西川正身

 盆地の牧場に育ったジョーディ少年は、山の向うの地へはまだ行ったことがない。気候風土や動植物に密接な環境で、感受性豊かに育ちつゝある少年だ。牧場主である父は厳格で口うるさくはあるが、筋の通った正義漢で、母は気丈ながら思いやり深い女性だ。牧場の仕事になら神様のように精通している牧童頭のビリー・バックもいる。

 『怒りの葡萄』をもって、スタインベックを偉大なアメリカ作家とする読者があろう。『二十日ねずみと人間』をもって、現代にも通底する問題を書いた作家とする読者もあろう。映画も大ヒットした『エデンの東』をもって、永遠の記念碑的青春物語とする読者もあろう。
 が、自伝的連作『赤い小馬』を読んだ読者は、スタインベックを大好きな作家の一人に数えるようになるに違いない。『開拓者』もそのなかの一篇だ。

 たまに山を越えて、お祖父さん(母の父)がやってくる。西部開拓史の武勇伝を繰返し語る。周囲は耳にタコだが、人の気も知らぬげに、倦むことなくまた語る。
 かつて彼らは幌馬車を連ねて、西へ西へと命がけの旅をしてきた。新天地を夢見る者、一攫千金の野心に憑かれた者、人に追われて東部から逃げ出した者。動機も人柄もまちまちで、たゞ「西へ」の一点のみ共有していた集団をまとめあげる苦労。幌馬車隊のリーダーだった祖父にとっては、その苦労こそが半生の絶頂であり華であり、誇りだった。
 今、そんな話を好んで聴きたがる人間など、どこにもいない。だが彼には、心に張りをもって語れる話題など、ほかにはない。

 まだこの先に西がある。そう信じられた時代のアメリカ人は、前向きで、意欲的で、健全だった。開拓開墾や牧畜の苦労にも、先住民族との諍いにも、町造りや自治にも、多大な犠牲を伴いながら、幾多の苦労を乗越えてきた。
 だがある日、この丘の向うにはまだどんな土地が。そう思って丘の頂上に立った人々の眼に入ってきたのは、見はるかす海原、太平洋だった。
 これ以上、西へは行けない。アメリカ人の複雑面倒な問題は、こゝから深刻化した、または深く内向化したと申しても過言ではない。

 ハワイを統治するようになったとき、日本と戦争したとき、ヴェトナム戦争に介入したとき、アメリカ人たちは心の奥の奥の奥底で、どう感じていたのだろうか。むろんご本人たちすら無意識のうちに、である。

 『朝めし』という短篇が『スタインベック短編集』に収録されている。
 棉花収穫の季節労働者としてテント暮しをする家族のもとへ、ある朝ふらりと、一人の旅人が通り掛る。寒いなか夜どおし歩き続けて、山を越えてきたと見える。
 がんがん火の燃えるストーブの前へと案内され、ベーコンとパンとコーヒーだけの、つましくとも温かい朝食をご馳走になる。仕事を探しているなら棉花農場に紹介するとの親切な誘いを辞退して、旅人は厚く礼を述べ、発ってゆく。
 たったそれだけの噺で、文庫本でわずか五ページの、思いっきり短篇だ。

 方向方角、方面や地形など、なにも書いてない。が、アメリカ人はこの短篇を読んで、旅人は東からやって来て、西に向けて発っていったと、解るそうだ。それ以外には考えられぬそうだ。
 「西へ行く」ということはアメリカ人にとっては、まるで遺伝子配列に組込まれてでもいるかのような、根深く骨がらみの、根本的感性だったそうだ。スタインベックが書いているように、それが徐々に変ってきている、通じなくなってきているという問題が、発生しているのだろう。

 アメリカ人の精神性について、私はなにも知らない。たゞ日本にも、似た問題はありそうだと、思うまでのことである。

ご提供

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 大豆の保存に失敗して、カビが生えてしまったことから、納豆ができたと聴いた。

 ブロック塀の内側へ落ちたカリンの実は、下が土だから、即日アリや微生物たちの栄養となり始める。往来側に落ちた実だけが、たまたま私が早起きもしくは遅寝で表に出た場合のみ、私のものとなる。
 カリン酒には気が乗らない。断捨離準備で片付けた広口瓶を出す気になれない。他に使う宛のない氷砂糖を買うのも業腹だ。甘く煮詰めて、シロップにでもしようか。

 皮に変色した部分があったので心配だったが、割ってみたら案の定、傷んだ箇所があり、虫が出ていった痕跡もある。こゝで放棄撤退するか続行するかの分岐点。今年は続行することに。
 リンゴや梨と違って、皮剥きも容易ではない。ピーラーを使う手もあるが、あとで切除しなければならぬ箇所が多いから、包丁で厚めに剥く。剥いた皮と果肉とから、傷んだ箇所を丹念に切取る。細かい外科手術だ。思いのほか時間が掛った。
 関の孫六三兄弟のうち、日ごろ冷や飯食いの三男坊(ぺティーナイフ)が、今日は大活躍だ。

 種と細かく切った皮とをゆっくり煮て、トロみが出たら濾して種も皮も捨てる。水を加え、さいの目に切った果肉と、砂糖を投入。大胆に外科手術した残りだから、さいの目とは名ばかりで形状まちまち。不等辺直方体。八面体もあり。しかも何割の果肉が活き残ったかも推し測りがたく、したがって砂糖の分量も見当をつけにくい。
 シロップ作りに砂糖のケチりは敗北の元。大胆かつ山カン。砂糖の融解を待って、フライパンに蓋をして、細火二十分。

 十分経ったところで味見。怖ろしく酸っぱい。えぐ味のごとき苦味もある。が、こゝで狼狽は禁物。でんぷん質をばかりでなく、ほとんどの成分は煮込み十五分から糖質に変化するか、刺激味が抜け始める。やゝ思案。砂糖を二匙だけ追加する。

 私のレンジは目詰まり激しく、炎が偏っているので、当初二十分と思ったが二十五分煮て、蓋を取る。あとは果肉をつぶして煮詰めるのだが、さて。
 スプーンの背でははかが行かない。しゃもじの背では細部に行届かない。湯豆腐用の穴あき小しゃもじが最適と発見。こゝでも、日ごろ出番の少ない奴が大活躍。フライパンの側面に押付けるだけで、果肉は面白いように砕け、つぶれてゆく。
 つぶし始めて不安がよぎる。こうして視ると、けっこうな果肉量だ。これでシロップなどできるのだろうか。

 果肉はおゝむねつぶした。トロみも出た。が、圧倒的な果肉量。これでは上澄みシロップの沈殿物どころではない。果肉そぼろのみぞれ煮である。
 味見。とんでもなく美味。ただし食感は形容を絶する。即興判断。シロップは諦めよう。もっと煮詰めてしまえ。液状飲料を放棄して、ペースト状食糧にしてしまえっ。

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 できた。名づけえぬものが。冷まして、味見してみる。美味い。砂糖の量は、結果オーライだった。甘くなったが、酸味も苦味も残った。食感は、なにかに似ている。
 そうだ。つまり、私が拵えてしまったものは、カリンのマーマレードであった。

 こゝにひとつ、問題が生じた。朝食にはトースト、なんぞという習慣を失って久しい。復活させる気も、今のところない。用途をいかにしようか。またも閃く。
 カリン・マーマレード2に蜂蜜1を、白湯で割ってみた。これはいける。
 炊事しながらちびちびやる食前ドリンクは、明日から新メニューとなる。

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 冷蔵する。我が家ではほゞ出づっぱりの蓋付中鉢と、十五年以上ぶりに出番が回ってきたボトルとに収める。ボトルは、ネスカフェ様ご提供。

堂々と

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 西部開拓史のテーマパークで奇跡が起る。撮影ポイントに置かれている、休息姿のカウボーイのブロンズ像が、突然動いたのだ。

 世界中で、PRANK(いたずらドッキリ!)動画が、連日ユーチューブに挙げられ続けている。映像が鮮明なもの、背景環境が整っているものなど、制作者の技術も進化してきている。
 しかし視聴者も仕掛けられた被害者も、ともに心から笑えるような、ユーモア・センスにおいて卓越したものとなると、やはり何人かのパイオニアたちの動画が眼を惹く。

 ブロンズ・カウボーイというアメリカの動画がある。風景も家並も、乗物から音楽まで、西部劇映画さながらにしつらえられたテーマパークらしき観光地のベンチで、若くハンサムなカウボーイの銅像が休息している。彼はベンチの端に片寄って腰掛け、さも隣が空いているよと、通りすがりの観光客を誘うかのようだ。
 「おい母さん、そこへ掛けなさい。一枚撮ってやろう」
 「そうねあなた、じゃあこっちのスマホでお願いするわ。まあハンサムなカウボーイさんだこと」
 ベンチでポーズをとる夫人の肩に、突然カウボーイの腕が回り、夫人を抱き寄せる。夫人は絶叫して飛びすさったり、その場に固まってしまったりする。ご亭主はシャッターを切ることも忘れて、大口を開けて呆気にとられる。一瞬の後、ご夫妻揃って腹を抱え、身動きもとれないほど大笑いする。

 パントマイマーの技術のひとつに、静止して見せるという芸があるが、その類だろうか。それに扮装が秀逸で、陽光を浴びたその色艶は、どこからどう視てもブロンズ製だ。
 テーマパークの題材上、若いお洒落なカップル客は少なく、中高年カップルや団体客、それに家族連れが主だ。都会型の裕福な紳士淑女がたというよりも、地方都市や農村にあって、半生を地道に働いてこられたのであろうなと想像させるような、いかにも人間性のよろしそうな観光客たちである。
 ブロンズ像がじつは生身の人間と判って、改めて嬉しそうに記念撮影に興じる。ブロンズ色の手にチップを握らせて、満足顔で去って行く。

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 いろいろおありでしたでしょう。愉しいことなんて、たんとはございませんものねぇ。こんな無邪気な馬鹿々々しいことで心臓が停まるほど驚くなんて、そして大笑いするなんて、いつぶりでしょうか。お子たちは、皆さん独立なさったようで、なによりです。
 奥さんの膝が、歩けぬほど痛くならぬうちに、ご主人が妄想やうわ言ばかり口にするようにならぬうちに、今日の行楽を迎えられて、本当によろしうございました。
 思いっきり絶叫なさい、かまいませんとも。いつまでゞもお笑いください、遠慮なんかご無用です。ひと目なんぞお気になさらず、芸人へのチップも堂々とお渡しくださってよろしいのです。

樹木

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カリン、サクラ

 二週間に一度、金曜八時から、少年たちは力道山を熱烈応援した。間の週はディズニーランド・シリーズ。
 ――ディズニーランドには四つの国があります。「開拓の国」「冒険の国」「未来の国」「おとぎの国」。さぁ今日はどの国へ。
 子どもに一番人気は「おとぎの国」。ミッキーやドナルドダックやグーフィー、それにチップとディルなど、ディズニー漫画のアニメーションだ。白雪姫もあったのかもしれないが、男の子の記憶には残らない。「冒険の国」はサバンナやジャングルの動物実写や、秘境への探検。「未来の国」は天体観察や、空想科学だ。 
 人気イマイチが「開拓の国」。アメリカ史や西部開拓史にまつわる物語が主で、ディズニーとしてはこゝがもっとも日本人に普及・感化したい要だったかもしれぬが、子どもたちには縁遠かった。なかに、こんな噺があった。

 白ペンキの垣根に囲まれた小体な家にお爺さんが独りで済んでいる。家は小さくとも庭は広い。牧草地かと見紛うほどの原っぱに、樹木がたった一本。全部がお爺さんの土地だという。囲いもないから、日ごろ子どもたちは自由に出入りして、遊んでいる。むろんお爺さんも、認めてきた。

 野球が注目される時代となり、子どもたちのあいだでも流行ってきた。少年野球の監督がやってきて、お爺さんにお願いごとをする。この広い庭を球場にさせて欲しいと。
 お爺さんは首を縦にふらない。じつはたった一本の樹を、お爺さんは我が子のように可愛がってきたのだ。それに野球がどんなものかも知らない。
 「クリケットに似ています。バットでボールを遠くまで飛ばして競技するスポーツです」イギリスからの入植者らしいお爺さんに、監督は丁寧に説明する。
 「あの辺りがホームベースで、内野がその辺まで。この辺が外野ということになります」
 「ここは、外野。外野なのだね」
 「ありがとうございます。子どもたちがさぞ、大喜びすることでしょう」

 工事が始まる。ある日、人夫が樹木の始末にやって来る。
 「ちょっ、ちょっと待ってくれ。監督さん、こゝは外野だと云ったじゃないか。だのになぜ、この樹まで?」
 「えゝ、ですから外野フィールドです。こゝも競技場になります。説明至らなかった点は、申しわけありません。でも子供たちは、本当に愉しみにしているんです。どうかどうか、ご理解ください」
 お爺さんは誇り高い人だった。騙されたのか、理解不十分だった自分が悪いのか、それは問題ではない。ともかく約束したのは事実だ。
 樹は、伐り倒された。

 球場は成った。少年たちの大きな掛声や笑い声で一杯だ。バックネット裏で監督が、お爺さんに懇切丁寧に説明している。
 「彼がピッチャー。投げてくる球を、ほらこのバッターが打ちますよ。一塁へと走ります。球の転送より早ければセーフです」
 お爺さんには、まだ解せない。けれど子どもたちの顔はどれも晴ればれして愉しそうだ。親たちまでがやって来て、夢中で応援している。

 はてな、自分は好いことをしたのだろうか……? 解らない。浮かぬ顔つきだ。とにかく試合というものを、最後まで観てみようか。それにしても、あの樹は二度と帰っては来ない。
 「開拓の国」で記憶しているのは、この噺たゞ一篇である。

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 拙宅敷地の半分は、東京都から召し上げられることになっている。道路幅を倍に広げての、再開発だという。
 サクラは今年も葉を降らせ、カリンは実を落す。

どこからか

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 困ったときの民間伝承か。間違った我流かもしれないけれども。

 もはやこの時期の季節感ともなりつつあるのが、忘年会のお誘い。もとより世間が広くはないので、数は知れているが、そのぶん熱心なお誘いだ。例年であればお断りできない、またお断りしたくない会ばかりである。会の発足以来、欠席した憶えのない会まである。

 今年はすべて、ご辞退している。おもな理由はふたつ。まず遠くまで出かける勇気が出ない。なにも遠方で開催されるわけではない。交通機関乗換えを含めて、せいぜい五十分以内圏内での開催ばかりだ。だが自粛以来、まだ池袋より遠くへ出たことがほとんどない。たゞ一度の例外は九月二十一日、谷中霊園の廣津和郎墓所へ参るべく、山手線で日暮里まで行ったきりだ。買物や歳暮の手配など、すべて地元か池袋かで済ませてきた。

 反対方向はとなれば、関係する雑誌の編集部への用足しに江古田へ赴いたきりだ。つまりやがて二年、江古田から池袋まで私鉄三駅の間しか、移動していないことになる。
 いけないのは、世間的仕事から足を洗った身ゆえ、それでもなんとか暮せてしまえているということだ。パスモが減らない。どうでも減らさねばならぬ理由もない。

 ご辞退するふたつめの理由は、本人はこれでも、毎日それなりに忙しがっているということだ。退職したからには、あの男さぞや退屈していやがるに違いないと、ありがたいお心遣いをくださる向きが多いのだが、どっこい当方は、よろず時間不足で、やるべきことを積み残したり、手抜きで済ませたりして、しきりと苛立ったり悔んだりしているのが実状だ。

 ではなにがそんなに忙しいのかと、改まって訊ねられると、答に窮する。ひと様にご納得いたゞけるほど巨きな事情などはなく、たゞ細ごまとした用事が山積しているのだ。
 この時期のありがたくない季節感のひとつに、喪中ハガキ落掌がある。そうだったと、すぐ思い出せる件もあるが、そうか知らなかったとの意外の感に打たれる件もある。遅ればせながら、なんらかの手当をしなければならない。
 今月末は、父の十三回忌に当る。母は一昨年済ませている。で、これが済めば一区切りと、なん年も前から思い続けてきた。べつだん法事らしい催しをするわけではないが、金剛院さまと私とのあいだだけで、相応のことはする。

 私の健康チェックも手抜きのままになっている。寒くなってくると血圧が上りだす。夏季は省略していた薬を服み始めなければならない。がん検診もサボったまゝだ。ワクチンも必要だろう。以上はホームドクター
 口中穴だらけで、歯を入れたり治療したりしなければならない。ユーチューブで自分の声を聴いてみると、瞭かに余計な息が漏れていて、発音が不鮮明だ。呂律も回っていない。以上はホームデンティスト。
 とうに通院するべきだったが、密を避けるとの思いもあったし、なぜこんなになるまで放置したかと、両先生から叱られるのも気が重くて、ずるずると一日延ばしにしてきてしまった。いよいよ待ったなしだ。

 とはいえ自己流で、健康に気遣ってはいる。毎日食材三十品目という都市伝説めいた説がかつてあったが、食事は少量ずつ多品目を徹底させている。米にはいろいろなものを混ぜる。上の写真は舞茸ごはん。
 玉子は毎日かならず一個。海藻は最低二種類。肉は少なく大豆を多く。胡麻は毎日かならず。ニンニクひとかけらと梅干半個もかならず。酢を使った料理をかならず一品。味噌は控えめ。

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 つねに具材の多い煮物は欠かさぬよう。ヒジキ野菜が切れたら、日を置かずに炊く。五日前の揚げびたしが思いのほか上出来で、目算より早く完食。気を良くして、今夜にでも第二弾。要するに、すべては食材品目数を稼ぐとの観点からだ。

 民間信仰にも似たこんな我流膳法に、果して効能あるのやらないのやら、はなはだ眉ツバではあるが、ともあれ甘党大酒飲みだったかつての人生マックス体重からは、二十七キロ落してきた。
 それでも癌細胞は、どこからかやって来る。かならずやって来る。