一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

桐箱

 桐箱に収められて、丁寧に包装された品物。こういうものを受取るのは、いつ以来だろうか。

 友人の音楽家が今年に入って、夫人を亡くされた。はたからはご病気知らずに見えたお元気な奥さまだっただけに、衝撃は巨きかった。
 ご夫妻もお子たちも、芸術・芸能に生きるご一家だったので、お若き日々のご苦労は、ひと通りではなかった。軽わざのごとくでもあり、白刃を渡るがごとくでもあった。

 長年のご辛抱とご精進の甲斐あって、近年ではご夫妻とも、慕ってくださるお弟子さんや後輩に囲まれて、おすこやかにお暮しと拝察していたところだったのに。
 ご葬儀には、あいにく私に半年前からの抜けられぬ先約があって、失礼せざるをえなかった。しかし仏様の配剤か、かえってよろしかったかという気もしている。
 今では友人にも、亡くなられた夫人にも、周囲に集う多くのお弟子やお若いかたがたがいらっしゃる。そのかたがたは、我ら(ご夫妻と私)のなりふりかまっていられなかった過去など、ご存じない。それでよろしい。
 得体の知れぬ老人がひょっこり顔を出して、恥多き昔を思い出させたり懐かしがったりすることは、ご迷惑だろうし醜怪でもある。
 晩年はなるべく、共に在ることをお悦びくださる人びとに囲まれて、おすこやかに過されるほうがよろしい。

 晩年にいたると人が変るとおっしゃる人がある。若き日の友情が色褪せるとおっしゃる人がある。ご恩や因縁に関して淡泊になるとおっしゃる人がある。が、私はにわかには同意しかねる。
 ある零細出版社の社長さんが、旧友の山本七平さんを久かたぶりに訪ねた。お若き修業時代、とある出版社において、山本さんが編集部に、社長さんが営業部にいらっしゃって、ともに汗を流した間柄だという。
 戻った社長さんは開口一番、「寂しいねぇ、山本は変っちまったよ」

 だが模様を伺ううちに、それは社長さんのほうに無理があると、私には思えた。
 聖書研究の専門出版社である山本書店の店主室には、文藝春秋だの読売新聞だの、外国の通信社だのテレビ局だの、来訪者が順番待ちしている。山本書店への来客など一人もなく、評論家山本七平さんへの来客ばかりだ。そこへ、
 「おぅ、山本ォ、懐かしいねぇ、あの頃はお互いに~」
 と入っていっては、いかに温厚な山本さんでも、対応に窮されたことだろう。やむなく、山本さんの秘書をも兼ねる山本書店編集長がやって来て、
 「社長さん、よろしかったら、どうぞあちらでお茶でも~」
 という仕儀とならざるをえまい。

 山本七平さんが修業時代を、消去したい黒歴史などと思っておられたわけではあるまい。友情を大切に思っておられなかったわけでもあるまい。社長さんの「寂しいねぇ」は、筋違いだったに相違ない。

 ご納骨を無事済まされたとのご報告状に添えて、香典返しとして、たいそう立派な商品カタログをいたゞいた。
 独居老人には、新たな生活用具も什器も、眼を愉しませ気を惹かれはするものの、いずれも宝の持ち腐れである。若い友人の祝言披露の引出物の場合には、消えもの(消耗品や食品)を選んでいるが、夫人をお見送りするカタログでは、まさか南高梅ビーフシチューというわけにもゆくまい。
 貧相でもなく見映え豪華過ぎもしない、私に手頃な念珠と専用袋のセットがあったので、いたゞくことにした。それが私にとっては、じつに久かたぶりの、桐箱である。

 願わくは、これの出番が少ないほうがよい。今さら四国巡礼遍路は無理だろうから、御府内八十八番札所を巡るさいの常備携帯品とするつもりだ。

あえて

 昨年のいつ頃だったか、有名メーカー品のチョコレートを比較検討していた時期があった。今はしていない。

 カカオ含有率 60%、70%、80%。当然ながら含有率の高い商品ほど、苦味が濃い。ビター味、というのだろうか。各社の商品とも、ひと口サイズの薄切り板チョコが銀紙にくるまって、洗練された彩りの小箱に詰められていた。パッケージ・デザインには「ワインに合うチョコレート」などと、目立つように刷り込まれているのもある。お洒落志向の女性客をターゲットとした商品であることが、ひと目で判るデザインだった。
 いずれも各老舗メーカーのイチ押し商品だ。味はどれにも明確なコンセプトがあって、愉しめた。しかしひととおり試してみて、おゝむねかような世界かと、自分なりに承知したところで、考察をやめた。中間結論を出したのである。
 「フ~ム、悪くない。が、俺にはゼイタク過ぎる」

 で、どなたにとっても味にお馴染み深いミルクチョコレートが、小粒状で透明な包装紙にねじりん棒のように包まれて、袋のなかにガサガサ入っている、いわゆるお菓子屋さんのチョコレートに、このところ落着いている。
 子どもたちのおやつ、といった感じの菓子である。製造元は明治製菓でも森永製菓でもない。
 あと一枚書いたら、ひと粒舐めよう、などと考えながら、夜なべ作業のデスク脇に置いたまゝにしておくには、ちょうど好い菓子だ。
 こんな庶民的な菓子にも考察の余地はあって、ビッグエーの商品とファミマの商品とでは、味も形状もわずかづつ異なる。原材料の含有配分やカロリー値やひと粒当り単価なども含めて、いずれ比較検討してみようかと思っている。

 わが愛用のファミマ廉価菓子類にあって、最近の異変はと申せば、「鈴カステラ」が姿を消したことだ。形状から商品名が「鈴」となっているが、要するにベビーカステラである。祭や縁日の露店で売られている類の菓子であり、いち時に三つも四つもがっつこうものなら、口の中の水分がもって行かれてしまって、往生するような菓子である。
 長崎屋さんに対しても文明堂さんに対しても、はなはだ申しわけないが、「しっとりなめらか」だけがカステラではない。いやもとい、高級カステラは「しっとりなめらか」であっていたゞきたいが、庶民の口にとっては時として、パサついた下品な甘みも好ましい。粉っぽさや単純すぎる甘さを懐かしがり、あえて求める場合もある。

 ファミマの棚から「鈴カステラ」が消えたのはしょせん一時的なものだろうと、たかを括っていた。補充のタイミングか、私の入店周期の問題だろうと、気にも留めなかった。が、消えてからもう一か月が経とうとする。どうやらなにかが起っている。
 小麦の輸入価格高騰だろうか。それとも製造元とファミマ本社商品仕入れ担当のあいだでの、商談決裂だろうか。夜なべのおやつにはまたとない縁日の味で、選択肢のひとつにすぎなくはあったが、姿を消されてみると、ちと淋しい。

 縁日で視る庶民的菓子のうちで、もっとも好物は切山椒だ。これは子ども時分も今も変りない。
 老舗菓子司による和菓子としての切山椒は申すまでもなく、縁日の露店で味わう、半ば乾いてしまったような、コレ餅ですかゼリーですか、というような切山椒も面白い。
 これは追掛け始めるとけっこう奥が深い感じもして、あえて品定めしたり、味わい比べたりはしないように努めている。

定義不足

 この数式の答えは?
 河野玄斗さんのチャンネルで、興味深いことを教えていたゞいた。

 答を「9」とする人と「1」とする人とがある。素朴な疑問に出発して、世界の数学者たちを二分する論争にまで、発展したのだそうな。計算機に問うても、「9」と答える計算機も、「1」と答える計算機もあるという。
 玄斗さんによれば、算数的思考と数学的思考の錯綜だとおっしゃる。

 算数の四則約束事を思い出せば、
(1)カッコ内は先に計算する。
(2)×、÷、が先、+、-、が後。
(3)×、÷、を複数含む式では、左から順に計算する。
 したがって出題の式は、6÷2×3 と書換えることが可能。左から計算して、答は「9」である。

 ところがもし、6÷2a だったら、答は、a分の3(ただしa≠0)、ということになる。
 そこで、a=(1+2)を代入したら、答の(a分の3)は「1」となる。これが数学的思考だとおっしゃる。
 6÷2a の「2」は不定数「a」に付いた係数であって、「2a」でひとつの数字と考えられる。もとの式でも、2(1+2)の左の「2」は係数であるとするわけだ。

 しかし、係数とは不定数を表現する記号(文字)だからこそ登場するのであって、すべて数字で表された出題式には、登場しえないはずだというのが、算数的立場である。
 四則の理論を確定させた論文は、1919年に出たというが、そこではこの、係数の存立範囲如何という問題は、定義されていないという。

 結果として、出題式に対する解答は、「定義不足」「解不能」と記すのがもっとも妥当だという。世界の数学者たちを巻込んだ論争の落しどころも、さようなことになったという。
 もしこの数式を試験問題に出したりすれば、出題者の見識が問われることになる。定義を明確に示して出題しなければならぬ設問だそうだ。
 ちなみにグーグルの計算機に掛けると、機械が勝手に 2とカッコのあいだに×を挿入して、6÷2×(1+2)と書き加えて、「9」という解を出してくるそうだ。つまり、機械が定義を補足してから演算したのである。

 以上が、河野玄斗さんからのお教えだが、相似的な問題は当方にもあると、思わぬわけにはゆかなかった。
 作者の表現に嘘がないとか、人間の本性を暴きえているとか、読者の考えになにがしかを提供しうるとかの価値が、芸術には可能だとの主張が一方にある。他方には、愉しめなけりゃ、売れなきゃという主張がある。芸術といったって大衆文化の一分野なのだから。
 双方ともにごもっとも、一理ある。その問題を、「高級な愉しみ」という複合概念を設定して、一流の作品は高尚でもあり娯楽的でもある、などと云いくるめてきた気がする。じつは定義をおろそかにしてきたのではないか。やり過し、先延ばしにしてきたのではないかという気が、ふと胸をよぎった。

いかん!

 老眼鏡を買い足そうかと考えている。

 四十歳過ぎたころから、老眼が始まった。幸いにして近視の遺伝形質を持たぬ家系なので、サングラスを除けば、その齢まで眼鏡とは無縁に過してこられた。それだけに、初期老眼の特徴である、まだら老眼の乱視併発による、不便感はことのほかだった。
 近視と長年付合ってこられたかたがたは、眼を細めたり光線の方向を意識したり、見えにくいものもなんとか調節して視てしまう技術を身に着けておられて、初期老眼に対しても抵抗力がある。が、人生初の不自由感に見舞われたものには、技術も抵抗力もない。

 初めはイワキメガネへ赴いて、なにやら大きな機械で時間をかけて、老眼と乱視の程度をくわしく検眼してもらい、特注レンズをあつらえ、見合うフレームを選んでもらった。たいそうな金額となった。
 それは大富豪のみがする、身分違いの行為だとすら、知らなかった。むろん今からは夢のような噺だ。

 いつのころからか、池袋のある眼鏡屋の定連となった。バッタ屋と悪口を云われるような廉価眼鏡店である。大手の安売りチェーン店ではない。卸価格販売店と称ぶのだろうか。型落ちの在庫一掃品やら、生産調整品やらが主要商品で、つまりは最新流行ではなくとも品質はまずまずという品物が、信じがたいほどの安値で買える。
 難点は、品揃えが安定していないことだ。あれもこれも欲しくなるような商品が、ドッと出回るときがあり、かと思うと急な入用が生じて駆け込んでみたら、どれもこれも食指の動かぬものばかりだったりすることもある。
 日ごろから散歩途中に気軽に立寄って、冷かし半分に眼配りしておくのが、上手な利用法だ。

 で、買物をするさいには、やゝ度の弱い疲れぬ普段使い用と、シャープに度の合った読書専用と、鞄に入れっぱなしにするスペアとの計三本を一度に購入したりする。サングラスも買ったり、置き忘れ予防に眼鏡を首から提げるチェーンなど附属小物を買い足したりもするから、店員さんの何人かとは顔馴染である。
 レンズ洗いのセットや眼鏡ケースなどを、おまけにくださる。

 この疫病騒ぎで、冷かしに寄る機会がまったくなかった。今お店が、また商品が、どういう状況か、まったく不案内だ。にもかかわらず、入用が発生してしまった。
 普段用が一部傷んだ。読書用がこのところ視当らない。外で紛失もしくは置き忘れた形跡は思い当らない。家の中のどこかにはあるのだ。が、さて、どこにあるかが判らない。そのうちに出てくるサ。あゝ無意識にこゝに置いたんだったという日が来るにちがいないと、もう半月も様子を視ているのだけれど、出てこない。今はスペアを使っている。
 で、出てきたら出てきたでよろしかろう。だいぶご無沙汰していることだし、例の眼鏡屋へでも行ってみるかという気に、今朝なったのである。

 となれば、ゆっくり炊事してチャント飯を食べている時間が惜しい。冷蔵庫の野菜ラックも冷凍庫もスカスカになっているから、午前中に買物を済ませよう。黄金週間中にもかゝわらず川口青果店が開けていてくれたから、大助かり。
 ビッグエーでは、定常補充に加えて「半日分緑黄色野菜弁当」(税抜き297円)タイムセール20円引きを買う。
 帰宅してとり急ぎ、酢の物と玉子と納豆、弁当を再加熱して即席食事。自分とはまったく異なる味付けの温野菜を噛みしめ、粥ではない炊込み飯をゆっくり噛んで食事していると、なにやらすっかり外食気分である。

 このまんま、池袋まで出掛けるのなど、やめにしちまおうか。いやいや、それはいかん!

満開宣言

 

 

 一度書いた、お向うの粉川さんご門柱脇に場所借りしているクローバ。あの時はツボミだったが、たゞ今満開。

 そのお隣、つまり拙宅筋向うの音澤さん駐車スペース脇に場所借りするクローバも、同じく満開。咲きっぷりを観ても、やはり兄弟だ。どちらが風上か風下か判らぬが、同じ日に同じ風に乗ってやって来て、こゝに着地したとしか思えない。

 拙宅敷地内のクローバとは、種類が異なる。拙宅のものどもは、すでに花を了えている。粉川さん、音澤さんのクローバは、道路側すなわち北向きに咲く。拙宅のものどもは、一部物陰に隠れるとはいえ、南にひらけた環境に根をおろした。
 今でこそ双方とも陽当りに問題はないが、秋冬のあいだは、環境にだいぶ格差があったと想像される。それが関係しているのだろうか。あるいは、たんに種類の違いからくる性質の差だろうか。


 音澤さんのクローバの真正面、すなわち拙宅隣の空地の道路際には、異なる小花たちがいる。種類からして全然違う。こちらはキク科である。

 クローバ類もいるにはいる。葉の色からしてまったく別物だし、背丈も低い。
 双方を隔てるのは、わずか幅五メートルの一方通行路だが、彼らにとっては厳密なる環境の境界線なのであろうか。

 たゞし彼らはいずれも、ある宿命を共有している。昨日今日の好天があと何日か続こうものなら、人間たちが動きだす。放っておきゃいいのに、彼らは等しく、引っこ抜かれる。几帳面な人間に遭遇してしまおうものなら、鎌を使って根っこの隅々まで掘り獲られることになる。
 その点についてだけは、拙宅のものどものほうが、はるかに恵まれている。最高権力者のズボラのおかげで、根絶やしにされるということはない。
 その代り、ドクダミタンポポヤブガラシ。蔓草類に樹木の根。恐るべき剛腕強敵たちの自由狼藉世界ではあるが。

 彼らはいずれも、明日をも知れぬ寄る辺なき境涯に身を置くものたちだ。人間から視れば、招かれざる客である。さればこそ、立停まって、話しかけてみる気にもなる。
 煉瓦に囲まれた花壇の花々、鉢を独占して思う存分咲いている花々、生垣の内側で最高権力者から水分・養分を毎日欲しいだけ与えられている花々たちには、近年あまり興味が湧かない。

ある時代



 たいへんなニュースがとび込んできた。

 レッドウェーブのシィこと篠崎澪が現役引退を表明。松蔭大学時代からの後輩でもあった内野智香英も、引退を表明。司令塔町田瑠唯の渡米と合せて、レッドウェーブは大幅に変貌することになる。
 昨年の、フォワード陣のアッと驚くような大型補強。若手ガード陣の急成長。なによりも、町田瑠唯キャプテンがナショナルチームへ出向するあいだも、チーム内に眼配りして束ねてきた、若き副キャプテン田中真美子が、ますます人間力を発揮することだろう。
 選手顔ぶれを見渡せば、B・T・テーブス ヘッドコーチのバスケは崩れないだろう。リーグ随一の堅守・スピード・速攻。そしてアウト・イン・アウトのスリーポイント。ひと言で云えば、大型チームをスピードで打ち破るバスケットボールだ。
 スピードと積極性は、サイズを制する。レッドウェーブの理念であり、日本のバスケットボールが世界に向けて、提唱するところである。


 とにかく徹底的に、禁欲的に練習に打込み、自分を鍛える選手だった。コートサイドの最前列席から、つい三メートル先でストップ・アンド・ターンしたり、スリーポイントシュートを放つ篠崎澪の脚を、この眼でぢかに視て、胸を衝かれたことがある。
 「日本一のフクラハギをもつ女子選手」と、どこかで書いた覚えがある。女性選手の魅力を紹介する言葉としては、はしたない申しようだ。またリーグ全チーム全選手の脚を視比べたわけでもないくせに、思い上った断定だ。が、承知で書いた。それほど感動した。

 インサイドレポートの動画にあった、後輩選手たちへのインタビュー。「練習への取組みかたで、尊敬する先輩は?」
 答は知れたようなものだ。全員が異口同音に、「シィさん!」


 Wリーグ・ファイナル、準優勝表彰台。一人は今年で現役引退とシーズン前から決心して、心中深く期するものあって、今シーズンを闘ってきた。現役最後の試合が、これで了った。
 もう一人は国内でできることはやりきったと感じ始めていたところへ、WNBA でやってみないかと水面下でオファーが。渡米しようかと考えている。
 長年の相棒にだって、まだ告げられぬこともある。だが、なんとなく気配を感じ合っている。二人で創ってきたチームではあるが、別れの日は近い。
 コイツ、ぜったい泣かない女なのに、泣いてやがんの。と、お互いに思ったことだろう。
 

 たしかワシントン・ミスティックスと町田瑠唯との契約条件は、先方のシーズン(たぶん九月末ころ)終了後は、レッドウェーブでプレーしてもよいことになっていたはずだ。つまり富士通に在籍のまゝ、ミスティックスに加わることになる。
 若手ガード陣も目覚しく育ってきているし、チームは一気に変貌をとげていることだろうが、それでも、町田瑠唯の役割は、まだあることだろう。
 だが戻ってきたそのチームに、篠崎澪は、いない。

変化する

新井 満(1946-2021)

 小説家、詩人、シンガーソングライター、映像プロデューサー、写真家、絵本作家……。とにかく多芸多才なかただった。それらの前に、電通社員だった。
 それでいて、ガリガリ掘削するようにお仕事をなさっているようには、見えなかった。(実際は大車輪のご多忙だっただろうに。)つまり、お洒落なかただった。

 小説家としてデビューしたころ、電通社員として「環境ビデオ」の企画を提出して、ボツになったなんぞと、おっしゃっておられた。そんなもの、まだ世の中のどこにもない、突飛な発想だった。主題となる被写体もない、頭も尻尾もない垂れ流しの環境映像など、商品になるはずがないと、だれもが思い込んでいた時代だった。
 今はどうだろう。大病院の待合室では大きな水槽に熱帯魚が泳いでいる。銀行の待合ベンチの脇では見晴かす麦畑に風が渡っている。ホテルのロビーでは滝から水が落下している。どういう仕掛けかと興味を惹かれて近寄ってみると、巨きな液晶パネルが壁ぎわに設置されていて、ビデオ映像が音もなく、流しっぱなしにされているだけだ。
 「癒し効果」なんぞという流行語も、まだなかった。新井さんの企画は、早過ぎたのだ。

 芥川賞を受賞したからといって、次つぎ作品が発表されるでもなかった。ずいぶんのんびりした作家だ、やはり天下の電通社員さんともなると、我われ野良犬どもとは余裕が違うわいと、私なんぞは想った。けた外れに柔軟で幅広い発想力をそなえた特異な才能の持主で、私なんぞとはなんら重なる点がないかたと、お見受けしていた。

 森敦の作品、ことに『月山』にたいするたゞならぬ関心を示され、あれこれ実行に移されたとき、オヤッと思った。うっすらと注目しておこうかと、肚の内にメモした。

『自由訳 般若心経』(朝日新聞社、2005)

 『自由訳 般若心経』には感心した。般若心経を音としてでなく意味として読める日本人は、多くあるまい。ところが新井『自由訳』であれば、読めぬ漢字があると不平を唱える日本人は、まずあるまい。それほどまでに、経典を噛み砕いて見せている。それにこの本の形式たるや、仏教思想書ではない。詩集であり絵本である。

 ご関心おありのかたも多かろうが、般若心経の核心部分は「空(くう)」の概念をいかに感じとるか、またはイメージするかにかゝっている。色即是空の「空」だ。空即是色の「空」でもある。新井訳の核心イメージも、その点にある。
 「空」とは、変転つねなきもの、片ときも留まらぬもの、固定した形を採らぬもの、という意味だそうだ。生命体であれ無生命固形物であれ、いっさいの存在物は動きをやめない。色即是空である。
 では在り続けている存在物とはなんだろうか。手始めにこの私とは、私が咥えている煙草とは、なんだろうか。いずれも変転つねなく、つまりは一瞬々々滅し、一瞬々々新たに産れているとのことだ。にもかゝわらず、人間にはそれらが「在り続けて」いるように見える。空即是色である。

 そんなふうに云われてもナァと、だれしも思う。だが――。
 素粒子論や量子力学のかたがたがおっしゃるには、物質をどこまでも細かく砕いて、極限にまで砕いてゆくと、最小微粒子の世界では、存在物とは物質なのか、運動なのか、エネルギーなのか、判らなくなってしまうそうではないか。というよりも、物質になったりエネルギーになったり、つねに変容しているそうではないか。「存在する」ことの根柢は、あんがい神秘的なのかもしれない。身のほど知らずに申せば、危なっかしいものなのかもしれない。

 悪魔的な挑発力をもった現代の解剖学者、養老孟司さんは教えてくださる。神経細胞の先端にあって繊毛のごとく細分化した部分の運動は、それはそれは速くしかも盛んなもので、観察していると、数か月で筋肉細胞の何割が入替るだの、七年で人体の全細胞が入替るだのということも、当然と思われてくるそうだ。
 昨夜就寝前の自分の肉体と、今朝起床した自分の肉体とは、別人と云ってもよろしい。それを連続一貫した不変なる「自分」と信じて疑わないのは「意識」たけだと、養老先生はおっしゃる。
 じつは刻々滅して、刻々産れている。つまりは、色即是空、空即是色ではあるまいか。

 「空」のイメージを掴むに、世俗的欲望を断つとか、心身の我慢を極めるとか、徹底した寛容を目指すなど、断念・諦念の方向にではなしに、生物であれ無生物であれ万物はつねに動き変化してやまぬことを指すとすることによって、ずいぶん考えの風通しがよろしくなる気がする。
 芥川賞作家も悪くないが、こっちの新井満さん、かなり佳いのではないだろうか。