一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

うちのひと

渡辺達生撮影、墨田ユキ写真集『MADE IN JAPAN』(ワニブックス、1993)より
無断で切取らせていたゞきました。

 男から視て都合の好い女、と片づけてよろしいものかしらん。いえね、『濹東綺譚』のお雪のことなんですが……。

 墨田ユキさんは、新藤兼人監督の映画『濹東綺譚』のお雪として、突如として現れたという感じだった。それ以前のレースクイーン時代や脇役女優さん時代を、私はまったく知らなかった。この作品にちなんで、芸名を変えたということだった。
 お雪役で、いくつかの新人賞や女優賞を受賞し、忙しくなん本かの映画やTVドラマで引っぱりだこになり、数年後に芸能界から去っていった。

 『濹東綺譚』以前には時代劇の脇役が多かったようだ。『濹東』以後の引っぱりだこには、サスペンス系、極道系、くの一系など、素人ならぬ女性の役どころが大半となる。お雪のイメージがあまりに強烈で、その延長線上のオファーが殺到したということだろうか。
 写真集が四冊残る。私の手元には三冊しかないが。いずれもヌード写真集であり、当時そんな語もあったヘアヌード写真集でもある。

 妖艶な肉体美を誇る女優さんではない。むしろ華奢な体躯と純朴な面持ちの女性だ。外見ではそういう女性が、はすっ葉な物言いでてきぱきと事を運んでゆく、そのミスマッチが新藤兼人映画では独特な色気をかもし出していた。闊達にたくましく生きる女の背後に、薄幸に生い立った身の上が、語らずとも透いて見える仕掛けに成功したわけだ。
 だからといって、その後もエロチックな路線でというのは、筋違いだったろう。そこへゆくと渡辺達生さんの写真集では、さんざんぱらエロチシズムを表現したあげく、最終ページ納めのワンカットには、それまでの全ページとはガラリとおもむきを替えた、憂いげな着衣の一枚を配してある。写真家やアートディレクターは資本からのオーダーとは別に、モデルの本性を視抜き、表現したのだったろう。

同上。

 小説家大江匡(ただす)は目下構想中の作品の舞台を取材に(シナハンですな)、京成線玉の井の銘酒屋街、いわゆる私娼窟をほっつき歩いていた。進歩の名のもとに軽薄となりゆく世相から顔を背けている大江には、かつて馴染んだ銀座も浅草も、今では疎ましい。
 そこへゆくとこゝ玉の井の空気には、震災前の盛り場の匂いがまだ漂っていた。ふいの夕立がきっかけで、お雪と知合い、馴染となる。いまだに日本髪に結っている女は、玉の井にも指折り数えるほどしかいないが、お雪はいつも島田つぶしに結い上げていた。

 この時代(昭和十年~十一年ころ)から視ても、すでに過去となった時代の残り香ふんぷんたる、空気と情緒と女を描いたのが『濹東綺譚』だった。
 客商売の女といってもお雪の心根はまっすぐけな気で、判断はまともである。馴染むにつれて、「年季が明けたら、わたしをおかみさんに、してくださいねぇ」などと云い出す。こんな街をうろつく、ちょいと物知りげな年寄り大江のことを、きっとエロ本出版屋にちがいないと、お雪はひとり決めしている。
 大江にはそんな気はない。身を引く時がくる。前触れも挨拶もなく、大江は玉の井から消える。徹底した個人主義永井荷風の面目躍如たる薄情さだ、冷酷非情さだと、古来甲論乙駁絶えぬ部分である。

 その問題は今は措いて、お雪の人間像である。ざっくばらんで気ばたらきが好く、常識もあり、男によく尽す。情は細やかだが未練たらしくはない。男から視て、まことに都合のよろしい女だ。新藤兼人脚本・監督の映画では、お雪のさような人柄が、原作以上に強調されていた。
 新藤監督の生涯全作に一貫するモチーフ。それは「母恋い」である。
 「いつも顔も手もまっ黒けにして働いてたお袋にアイラブユー、私にはこれ以外にはありません」
 監督へのインタビューで、私は直接ご本人から伺った。もっともその場には、吉永みち子さんもおられて、夫へ向けた吉永さんの想いと母へ向けた監督の想いとを、重ね合せて伺ったのだったけれども。

 時代に背を向けた反骨も、庶民階級のうらぶれたエロティシズムも、そありゃあ『濹東綺譚』にちがいない。だがそこから、あっけらかんとして清らかな母性を引出して観せた新藤兼人映画は、たしかにひとつの創意だった。
 墨田ユキさんは、それを表現するにうってつけの女優だったし、お見事にやってのけられた。

奥 舜 撮影、『写真集 墨田ユキ』(徳間書店、2001)より、
無断で切取らせていたゞきました。

 馴染んでしばらく経って、互いの間合いが定まってきたころ、
 「ねぇねぇ、友だちには、あなたのこと、なんて紹介しよっか?」
 「どうでもお好きに。でも希望を云えば……うちのひと、かな」

 そんな台詞を口にした時代があった。借物のキザだなと、自分でも承知していた。身も世もあらぬ夢中の恋心などは、とうに湧かなくなっていたから、「どうでもお好きに」は嘘ではなかった。かといって、この女と離れたくはないとの執着心はまだ醜く残っていて、余人の介入を許さぬ二人のあいだだけに漂う空気を、維持したい気持は強かった。
 「うちのひと」を所望したのは、そんな齢ごろのことだ。たいては「馬鹿みたい」「趣味悪ぅ」「あなたいつの人よぉ」などの反応が返ってきた。

 新藤兼人監督作品『濹東綺譚』で、ふっつりと姿を消した大江を、お雪が捜し歩く場面がある。日ごろ立寄りがちの店の暖簾を分け、
 「ねぇ、うちのひと、伺ってません?」
 その墨田ユキさんの声と表情が大好きだった。

着眼

「世田谷ピンポンズ」さん Twittere より無断で拝借しました。

 世に隠れた才人というものは、いらっしゃるもので……。

 かつて「週刊朝日」巻末に、山藤章二さん選考・ご指導による「似顔絵塾」が連載されていた。投稿者による似顔絵の傑作により構成される、四十年以上も続いた人気連載だった。この有名人のこゝに注目したかと、意表を衝かれたり、腹を抱えたりしたものだった。
 着眼の才能というものは、じつに凄まじいものだなぁと、毎回感じ入った。巻末一ページのために、毎週「週刊朝日」を買うのも業腹なので、多くの場合は立読みで済ませた。

 ところで、Google にも SNS にも、それぞれコレデモカとばかりに多彩な機能が搭載されているが、私には宝の持ち腐れで、ほとんど使ったことがない。試してもみない。
 Twitter のご丁寧なる機能のひとつで、二年前の今日、あなたはこんなリツイートをしましたよとのご通知が、本日あった。ほとんどの場合は失念していて、通知されてみれば、はいさようです、たしかに私が反応したことを今思い出しました、という内容だ。が、本日のご通知ぶんに関しては、はっきり記憶していた。
 Twitter にはまた、ブックマークと称する記憶収納機能が備わっているわけだが、2011年3月11日に登録設定したわが Twitter で、ブックマーク保存してある投稿記事は、これ一点のみである。

 「世田谷ピンポンズ」さんによる、2020年5月16日の投稿記事である。「三人選んでいただけませんか」という本文付きで、五十四人の作家の似顔絵がずらりと並んでいる。どれもが面白い。
 「週刊朝日」に投稿され入選掲載されるような、想を練って丁寧に仕上げられた似顔絵とは、およそ似ても似つかない。おそらくは先の細いサインペンかなにか(極細マーカーというのか)を使って、文豪文士の肖像写真を一見してササッと描いてしまったのだろう。「丁寧」とはまた別の、ユーモラスな味わいが深い。
 私には「世田谷ピンポンズ」さんが、どなた撮影によるどの肖像写真をご覧になったかまで、云い当てられるものも少なくない。

 京都にお住いのフォークシンガーでいらっしゃるそうだ。本と文学と喫茶店がお好きと、プロフィールにはある。
 著名なかたなのかもしれないし、ウェブ上や文学フリマ上では、知る人ぞ知るかたなのかもしれない。そちらの分野には暗いので、私は存じあげない。
 ハンドルネームから察するに、東京と京都とを往ったり来たりなさっているかただろうか。それとも、京都にも世田谷という地名があるのだろうか。文フリ東京に出店なさるというから、たぶん前者だろうとお見受けするが。
 ちなみに私は今年も、文学フリマには足を運ばぬつもりだ。老人がのこのこと人混みへ出張ってよろしい時節では、まだない。

同上。

 才能とは、素材への着眼において独自であることを要件とする。いかに技量すぐれていても、手際が入念であっても、それらはまた別の価値基準であって、天稟とは関係ない。余人おしなべて、こんなもんと顧みざるところに面白みを視出して情熱を注ぎこめる能力を、才能と云う。
 師が夏目漱石研究者だから私も漱石論を、というがごとき言葉が出た時点で、その弟子の才能は先が見えたと申すべきだ。

 たゞし才能は必ずしも大成には結びつかない。才能の多寡とはまったく別に、職人として学者として大成する行程もあって、そちらでは師が漱石研究だから私もという志も侮れない。むしろその謙虚な心掛けが地道な精進の支えとなり、現世的には大成への必須要件だったりもする。
 後進と付合うに、才能を視抜くことと、将来性を視抜くこととは、必ずしも一致せぬ場合がある。

 今これを書きつつ、突然思い出した。村上龍さんが『限りなく透明に近いブルー』で芥川賞受賞したさいの、吉行淳之介さんの選評に、
 「この青年、因果なことに才能がある」
 とあった。おそらくは吉行先生、才能あるがゆえの大成への行程困難をご指摘なさったのだったろう。その後の村上龍さんは、たしかにさような困難に見舞われ、しかもお見事に闘われたとお見受けするけれども。

 噺が逸れた。「世田谷ピンポンズ」さんのポンチ画的似顔絵には、独特な滑稽味が閃いていて愉しい。お齢のほどは存じあげないが、才能が非才能からおゝいに学ばねばならぬという、人生上の課題の困難に見舞われていらっしゃらねば幸いだ。

反文明


 花に恨みはありません。でも、あと一週間以内の命です。しかたないのですよ、ユキノシタ君。

 いく度も書いたことだが、拙宅に庭などはない。門の代りの木戸、と申しても正しくは合金と軽金属により加工された扉だが、その木戸口から玄関扉まで、幅も奥行もわずか数メートルの地面がある。飛び石が埋っていたり、割れた植木鉢が放置されてあったり、かつては植木棚だった材木が朽ちかけたまゝ、もとはなんだったのか思い描きにくい残骸となって塀際に寄せられてあったりする。
 あとは塀にそって建物の裏手へと回る、幅二メートルほどの通路がある。

 日常的に観察できる植物や、昆虫や蜘蛛などの節足動物や、環形動物や微生物などの地中生物類は、すべからくこのごく狭い領域内にて生命活動を営んでいる。いつ頃からかは、個々の来歴に相違があるが、長いものならおよそ六十年の付合いということになろう。
 当方は一個体の少年期から老年期に相当するが、植物・小動物たちにとっては、遠い祖先からの付合いということになろうか。
 消長も栄枯盛衰も、思い出し語り始めたら切りがなく、姿を消していったものを書き出すだけでも骨が折れる。

 毎年顔を見せる相手には、愛着も芽生える。季節が巡り来て、例年同様の姿を見せれば、挨拶のひとつもしたくなる。先方だって、そうかもしれない。
 ましてや姿や性質が可憐だったり、質素に美麗な花を咲かせたりする種類に対しては、気持が動く。先方にとっては、種族存続のための広告塔であり生殖器であり、いわば命がけの武器であるとは承知していても、である。

 だが情にほだされて、甘い顔ばかりもしていられない。手抜き放置すれば、後のち手ひどい厄介を背負いこむことになる。陽気のよろしい日で、こちらの体調・気分が整った日には、わずかづつでも草むしりを継続しなければならない。
 植物たちと昆虫たちと地中生物たち、それに植物に巣食う病害虫どもまでをも含めて、押寄せる無数の生命たちとの戦は、当方の年々着実なる老化によって、年追うごとに苦戦となってきている。

 始末に負えなくなったこの現実にどう対処するか。植木職の親方との雑談のなかで相談してみた。
 「まったくねぇ、仕方ないもんですよねぇ」
 私よりいくつかお齢上でいらっしゃる親方は、笑顔で言葉を濁された。対処法をご存じないはずはない。〈けれど、そんなことおやめなさい。お奨めしません〉という意味だ。長年の付合いだもの、解る。

 ある年のこと、長らく放置もしくは素人手入れのまゝに先延ばしにしてきたため、手に余る仕儀となってしまったサワラ系の樹を、いよいよどうでも伐り倒さねばならぬ事態が生じた。親方にお願いする仕事でもないので、別の筋で存じよりの若き植木職人(たぶん四十歳前後)栃尾君に話を持ち掛けたところ、機嫌よく取りかゝってくれた。
 丈十メートル以上にもなって、あたりの鳥たちにとってハブ樹木となっていた一本を倒すのが主目的だったが、これだけなら一日仕事ですらないとのこと。それじゃあついでにとの運びになって、これも懸案の、丈四メートルほどに育っていたネズミモチ三株をも伐ってもらった。

 そのさい栃尾君にそれとなく相談してみた。春になると、草どもが元気良すぎて、草むしりが追いつかねぇんだけど。
 「なんてことないです。方法はいくらでもありますよ。すぐにやりましょうか?」
 「ちょっ、ちょっと考えさせてくんねぇか」
 その一は、ネットを敷き被せて地表全面を覆ってしまう方法。寒冷紗に似たものだろうか。陽光や空気接触を制限してしまう方法のようだ。
 その二は、除草剤を撒いて、無差別に枯らしてしまう方法だという。いったん除草剤で枯らしてから、ネットを被せれば完璧だという。

 玄関扉を開けると、ドクダミタンポポヤブガラシも見えぬ代りに、一面黒ネット敷き。なにも今から、ゴルフ場を創ろうってんじゃねえんだ。大袈裟に過ぎようが。
 また全面の除草剤撒布。たしかに草たちの生命力を制限することはできるかもしれないが、昆虫類や地中小動物や微生物たちにとっては、突如として原子爆弾の惨禍に見舞われたような、一族郎党皆殺しの様相となるのだろう。どうにも気が進まない。

 ところで、東京都の防災都市計画とやらで、火災にも地震にも強い街並を造るために、拙宅前の道路幅を倍以上に広げたいのだとか。ついてはこの土地を買上げるとのご方針だ。ご近所にも、だいぶ緑色の金網で囲われた空地が目立つようになってきている。
 つい先月も、お上の手先となって、もとい手足となってご活動の○○公社を名乗るかたがたが、「ご挨拶」と称してご来宅された。

 お上のお仕事に異を唱えたり、叛旗を翻す気など毛頭ない。かといって自ら進んで、もろ手を挙げて率先協力申しあげるつもりは、なおさらない。
 どうせ召上げられる土地だから、あとは野となれ、いかに荒れ放題となってもかまわぬなどとは、夢ゆめ思わない。けれども、草一本視当らぬ不動産カタログのような土地にして奉納献上する気にもなれない。
 土地の売渡し日が、桜や花梨や万両や、タンポポオダマキドクダミや、ダンゴムシやミミズや地中生物たちとの、関係を清算する日である。

 黒ネットや除草剤は、もっとも賢明かつ合理的で、云うなれば文明的な処理なのだろう。ならば私は、反文明的でけっこうだ。
 あゝ間に合わない、手が回らない、追いつかないとぼやきながら、つい昨日まで人間が住んでいた。そういう土地を、人手に渡したいのである。

ハブ樹木


 道路を挟んで拙宅の筋向うにあたる音澤さんのお宅は、ゆかしき意味で自由放任のお宅だ。政党からポスター掲示の願い出があると、差障りでもない限りは許可していらっしゃるらしい。国家権力政党も泡沫政党も差別しないというかたちで、不偏不党を表明しておられる。私にはとうてい真似のできぬなさりようだ。

 庭木にたいしても姿勢は一貫しておられて、人さまによっぽどのご迷惑が及ばぬかぎりは、植物の生命力のなりゆきに委ねておられるようだ。
 花や葉が道路に降り散ることでもあると、夜明け早々にご主人みずから、箒と塵取りで掃いておられる。枝があまりに道路へ身を乗出したときには、高枝伐り鋏を持出されて、チョキチョキやっておられる。物干竿の先端に鋏が付いていて、綱を引きながら操作する道具だ。一時期、通販広告でよく視かけたが、今でも人気商品なんだろうか。

 ご門内、お玄関までのわずかな広さに、花が咲くもの実がなるもの、数種類の樹木がちょうど好い具合に、外からの視線からお二階の窓を覆い隠すように繁っている。
 もっとも丈高いのはたぶんネズミモチだろう。実を着けるものだから鳥たちの食糧となり、どこからか運ばれてきて芽を噴く。実生の苗だ。

 拙宅敷地にも四株五株生えて、邪魔にもならぬかと気にせずにいたら目覚しく成長して、二十年も経たぬうちに一階天井くらいの高さにまで成長して、枝葉を逞しく繁らせるようになってしまった。で、玄関脇の門番一株を残して、すべて伐り倒した。
 絶命させる薬剤を切株に塗布してはみたが、成木の生命力は侮りがたく、今でも切株からひこばえのごとき細枝を出してくる。眼を離さぬよう心掛けて、生い繁るまえに剪定鋏を使わねばならない。

 音澤さんのご主人は、私より鷹揚だ。寛大である。ネズミモチを主木とする数種類の樹木はあい俟って、お二階の窓から、うっかりすると屋根までを覆いかねぬ勢いだ。
 ファミマの帰りに交差点でしばらく立停まって、しげしげ観察したところによると、どうやらこゝが現在、あたりを飛び交う小鳥たちの、ハブ樹木となっているようだ。

 梢あたりがちょうど二階家の瓦屋根の高さほどだが、そのあたりはヒヨドリが何羽も飛来して、鳴き交す。挨拶か情報交換か。こゝから四方八方へと翔び発ってゆく。
 樹木の中ほど、一階の軒びさしの高さあたりはスズメのコロニーである。餌となるモチの実には不自由ないはずだが、なぜか子スズメたちは、車や人の往来の隙を窺いながら、アスファルト地面へ降りてきて、信号機の足元あたりで餌をついばんでいる。完熟して地に落下した実のほうが美味いのだろうか。それとも枝上で食事するのでは、足場が悪いとでもいうのだろうか。

 スズメよりほんの少々小型の鳥も混じる。メジロでもシジュウカラでもない。それらなら私にだって、すぐに視分けがつく。
 高層の梢領域にもヒヨドリ以外の鳥が混じる。ムクドリではないようだ。ツガイで行動しないし、脚もオレンジ色ではない。形と色からするとオナガでもない。とくに調べてもみないが。
 ハトも通りかゝるが、電線やベランダの手摺が専門で、樹木の中へはめったに入って来ない。

 季節がら、ツバメも姿を現した。巣造りの材料集めだろうか、それともすでに子育てが始まっているのだろうか。いやその前に、どこに巣を架けたのだろうか。拙宅敷地内には外敵の心配もなさそうな軒下もあるのだが、ツバメの巣が架かったことはこれまで一度もない。
 いずれにせよ、鳥たちが中継地の立寄り所とし、餌場とし、安全地帯としている樹木の集りだから、虫も湧くことだろうし舞うことだろう。ツバメにとっても視野に置いておくべき場所なのだろう。三回四回と旋回してから、どこかへ翔んでいった。

 それにしてもツバメは、どうしてあんなに、羽ばたきもせずにスイスイと滑空できるのだろうか。それに比べてスズメは、どうしてあんなに、短い移動にもパタパタ羽ばたくのだろうか。
 まさかお互いが見えていないはずがあるまい。アイツらの大家族が来ているナ、アイツが来る季節になったカ、と解っているだろう。が、張りあうのを視たことがないし、意識しているようにもついぞ見えない。互いを、どう観ているのだろうか。

 俺は、なにを今さら子どもじみたことをと照れるが、ツバメのように生きるつもりでスズメのように暮しちまったかと、青信号を待つあいだに、ふと想う。

第三位


 昨日に引続き、取るに足らぬ些細なもんに、飽きがくる噺で。

 たしか昨年の今ごろか、久かたぶりに肉じゃがをつくって、数日かけて食べ了えるとまた肉じゃがを仕立てるという時期を、しばらく続けた。水加減も調味料の配合も、以前のことなどろくに憶えちゃいない。そこはヤマ勘テキトー。当然ながら、とりたてゝ不味くもないというだけの、あいまいな代物ができる。
 出汁加減を、砂糖の量を、醤油を差すきっかけを、下茹で時間と煮る時間のバランスを、あれこれ考えてまたつくる。結局毎週のように二か月半ほど、肉じゃがをつくった。人さまにお勧めなどできぬが、自分で食うならこのあたりかなという味に落着けば、いちおう満足。飽きがくる。

 夏から秋のころには、揚げびたしに替えた。これは調理時間も長いし、具のバリエーションも豊富だ。青魚が定番だろうが、鶏肉でもやってみた。そして両方捨てて野菜だけになった。軟かく仕上るものとしてはピーマンと茄子が双方捨てがたく、最後まで取っ換え引っ換えした。人参と生椎茸は不動の定連。蓮根を使いたかったが予算オーバーになるので、ひねこびた見切り品が出るのを狙ったが、機会は一度しかなかった。
 漬け汁の酢の援軍として、花梨の実からシロップを造った搾りカスを冷凍しておいたものをつかったら、大成功だった。搾りカスが底を突いたら、酸味が寂しくなった。が、柑橘系調味料などは買わない。使い切らずに了ってしまう可能性が高く、もったいない。
 これもだいたい「俺の味」に行き着いたので、飽きた。

 次はどうしようと思いつゝ年が明けたころ、ふいに牛蒡の味が懐かしくなり、鶏ゴボウに切換えた。と申しても、これは勝手な命名で、玄人料理人がたがお造りになる「鶏牛蒡」には似ても似つかない。要するに、鶏肉と牛蒡・人参の炊き物である。竹輪や生姜に応援させたりする。
 例によって以前の加減は記憶していない。たしか牛蒡の下茹で時間に気を配った憶えがある。人参九分、牛蒡十一分だったか。根菜のエグ味というか泥臭さが抜けてしまっては、元も子もない。
 思えば私は、一年中ニンジンとカボチャを食っている男だ。

 つい数日前、ふいに雁もどきを食いたくなった。そういえば、ジャガイモとも少々ご無沙汰している。なんたって、肉じゃがから一年が経つ。
 で、定番の人参と竹輪を合せる。たしか雁もどきと竹輪が入るときは、塩味をよく吸うので、心持ち醤油多めだったか。先に出汁と酒と砂糖で少々煮て、後から醤油だった記憶がある。落し蓋だったな。
 咄嗟の思いつきで、白滝を放り込んだら、グジャグジャした豚の餌みたいなものができた。味は悪くない。かといって佳くもない。段階的ににじり寄ってゆくこととする。よしっ、この夏は、芋を食うことにしようか。

 温野菜食中心の生活を続けてきて、しみじみ想うのは。なにと合せても美味く仕上り、相手をも美味くさせる、優れもの食材の存在である。かなり長期間考えて、今もって考慮中なのだが、二番が雁もどきだ。雁もどきも種類は多彩だが、細目分類と評価は他日として、ひっくるめて申せば、まずトップスリー入り鉄板。
 一番は干椎茸。たゞし私の台所には予算オーバー。「高級肉厚どんこ」なんぞというものを、両親の看病・介護の時分には用いたものだったが、今の私には身分不相応だ。小ぶりな並の品で見切り値引き品に遭遇でもしたら、ということにしている。
 生椎茸を冷凍庫で凍らせてから使うと、干椎茸のようになるという説があるが、まだ試みたことがない。水分を出すという点は期待できようが、やはり陽光による化学変化の側面は侮れぬだろうという気がしている。

 さて問題は第三位である。この選考が難航している。
 大根は? 相方を選ぶ。途方もない名人芸を発揮する反面、気に食わぬ相方には意地悪をしかねない。
 昆布は? 有力ではあるが、調理法によっては、汁にトロ味を出し過ぎる。
 人参は? 自分が美味くなるのであって、相方を美味くするわけではない。じゃが芋も同様。
 牛蒡は? 力があり過ぎる。どんな相方と合せても、牛蒡料理にしてしまう。
 玉ねぎは? 有力候補ではあるが、溶け過ぎるんでねぇ。
 生姜は? まさしく、どんな相方をも助けて、仕事を完璧にこなす、信頼度抜群の腕達者。たゞし徹底した脇役キャラで、トップスリー入りしようものなら、本人から辞退されそうだ。

 よって今のところ、第三位は空席ということにしておく。

蹉跌


 どんな些細なことにも、飽きがくるというときはあるようで。

 いつ頃までだったろうか、瓶入りのインスタントコーヒーをスプーンでカップにとり、湯を注いでいたのは。すいぶん長い年月、さようにしてきていた。
 お若いかたの嗜好の多彩化によるのだろうが、オレだの、ラテだの、ハーフアンドハーフだの、良く申せば細やかな、悪く申せば中途半端な飲料がお洒落系喫茶店に氾濫して、目新しもん好きの眼を惹いた。
 企業がこれをビジネス・チャンスと捉えぬはずはなく、自販機用の缶入り飲料もペットボトル飲料も、あれよあれよの間に商品アイテムが倍増した。当然ながら、インスタント飲料にも、その趨勢が反映せぬはずがない。

 TVチャンピオンじゃあるまいし、マニアックに詳しくなる気はしない。しばらくの間はわれ関せず。スプーンでとった顆粒状の珈琲に、白湯を注いでいた。
 ふとした気の迷いか、あるとき手に取ってみた。砂糖もミルクも不要。というより、すでに仕込まれている。つまり味はすべてメーカーにより決定済み。あとは水分のみ。ふぅむ、ワタナベのジュースの素や永谷園のお吸い物と同じか。あのカルピスでさえ、自分で濃度調整するというのに。

 一商品を手に取ると、もういけない。わが町のスーパー・コンビニに並ぶ商品を、ひと通り試してみたい欲求に駆られた。旧い歌謡曲よろしく、これが苦労の始めでしょうか。
 一箱に、スティック状の小分け袋が、二十数本も入っているのである。珈琲飲料だけでも、三百杯は飲まねばならない。一巡したころには、最初の商品の味など憶えているはずがない。採点ノートを作って、記録しようか。それもこだわり過ぎの感がする。
 全商品からまずそれぞれ一本目を取出して続けて飲み、一巡したら各二本目に移るという方法を採るか。それには全商品を一度に買い揃えなければならない。商品特性からいって消費期限には問題あるまいが、それよりまず自分自身に信用が置けない。途中で気が変ったり飽きたりして、調査中止を判断することにでもなったら、その時点での手持ち在庫をどうするか。

 待て待て、こゝは冷静に……。
 大手メーカーの開発研究室。会社としては社運を賭けての新商品開発だったことだろう。スタッフ一同にとっては、社内立場や将来のサラリー安定を賭けて、息詰まる実験と試行錯誤の日々だったことだろう。
 加えて営業部の販促担当がいて、スーパーやコンビニ本部の仕入れ担当がいる。遜色ある商品が、そうそう棚に並んだり、私ごときの眼に止ったりするはずもあるまい。
 こゝは一番肩の力を抜いて、緩やかになだらかに一箱づつ、一商品飲み了ったら次は別商品を買ってみるという、ごくフツーッの態度が正解なのではあるまいか。

 案ずるよりなんとやら。三箱目が四箱目に、ネスカフェゴールドブレンド・カフェラテと出逢った。私勝手な呼称「黄箱」である。
 軽い。食後のひと休みにうってつけだった。味の相性も合った。で、こゝ二年近くは、これ一本に絞ってきたのだった。目移りの必要を感じなかった。満足とは自己満足の謂いであると、自分に云い聞せてきた。

 蹉跌は己惚れに忍び寄る。まさしく。
 味わう当方の老化が計算に入ってなかった。味覚がというより、内臓が老化してきたのだろう。日に三杯も四杯も飲むうちに、気が進まぬようになってきた。ひと頃ほどの欲求がなくなってきた。
 気紛れな試しで、スーパーの棚で隣り合っていたミルクティーに手を伸ばしてみた。私勝手な呼称「ピンク箱」である。ところがだ。珈琲よりもっと軽く、飲んで楽だ。

 この齢まで、紅茶趣味をもったことはない。高級な紅茶のご進物に与っても、そんなにお気を遣わず、あたりまえの庶民的インスタント珈琲でよろしかったのにと、内心では思ったものだった。『相棒』であれば、「右京さん」から厳選茶葉の紅茶をご馳走になるより、「亀山君」と珈琲をご一緒するほうを選んだろう。
 その私が、である。インスタントのミルクティーは、軽くて、甘くて、楽だ。目下併用中だが、出番は徐々に接近、いや逆転しつゝある。
 たかがひとり飯の食後の一杯。こんなところにも、老化の推移は顕れる。

街の絵柄

 ヤマボウシとハナミヅキの見分けかたを、知らない。

 高校時代の学友亀戸君のお通夜に参るべく、久びさに電車に乗ることに。
 わが駅前に立って花を着けているのは……。しばし立停まって眺めてから、まぁ通夜の日でもあることだし、常緑系の山法師ということにしておこう。。


 目的地の最寄り駅は都営新宿線の菊川だという。浅草から視て川向う。深川と称ばれる一帯だ。隣の森下駅にも、さらに隣の清澄白河駅にも、下車した経験はあるが、菊川駅で下車するのは、おそらく初めてとなる。
 かつてなん度か、森下駅から芭蕉資料館へ、そして隅田川沿いをぶらぶらするという散歩コースを歩いたことがあった。
 芭蕉が草庵を結んだのが今のどこか、正確には定めがたいらしい。ある年のこと、台風による高潮に洗われて、松尾芭蕉が愛してやまなかったと伝えられる石の蛙が出土して、ここが芭蕉庵だったろうと見做された。史跡とされ、今は区立施設として記念館が建っているわけだ。

 清澄白河駅下車であれば、まず駅脇ともいえる清澄庭園小石川後楽園駒込六義園ほか、池の周囲を巡るゆかしき日本庭園は東京にいくつもあるが、他を圧する清澄庭園の魅力はと申せば、石である。名石と名高い全国各処の石を取寄せて配した庭は、さながら庭石コレクションとも庭石美術館とも称びえて、圧巻である。
 庭園をあとに深川江戸資料館へというのが定番コースだ。江戸時代の川岸に建った船宿や漁師たちの長屋や、日用品の商店などが再現されて、テーマパークを歩く気分に浸れる。
 資料館を出れば、界隈の食堂ならどこでも、名代「深川めし」が食える。発祥は、忙しさのあまりに仕事途中で丁寧に手や顔を洗っている暇すら惜しい漁師や職人たちが、浅利の味噌汁を濃いめに仕立てて、冷や飯にぶっかけて掻っこんだものだ。現在ではもちろん、上品な丼料理となっている。
 下町情緒を演出した商店街を抜けきれば、大通りを渡った向うは現代美術館だ。また別の方向へひと駅分歩けば門前仲町で、富岡八幡宮深川不動尊ということになる。どっち方向へ歩いても、見聞の種に不自由はない。

 ずいぶんご無沙汰してしまった地域だし、今日はひと駅となりの菊川へ初下車である。けっして遅刻はならぬし、かりに到着が早過ぎても、あたりをぶらぶらするのも一興と、十八時からの通夜なのに、十五時には拙宅を出た。
 早く出立したには理由がひとつある。普通の着想から都営新宿線に乗ろうとすれば、池袋と新宿とで、二回乗換えねばならない。気が進まない。
 そこでまず練馬へ。つまり目的地の逆方向だ。そこから都営大江戸線線に乗ったまゝ、東中野・都庁前・新宿・青山・六本木・大門・築地・勝どき・月島・門前仲町と、ぐる~りと遠回りして森下まで、気楽に腰掛けて行こうという道筋を選んだ。なんの思いつきか、岩波文庫永井荷風『濹東綺譚』をバッグに収めた。

 遠回り地下鉄は、私の髙括り以上に時間を要し、文庫本は五十ページ以上、もう主人公大江匡が古本屋に寄る場面も、巡査に職質される場面も、それどころかふいの夕立が縁でお雪と出逢い、家にあがる場面まで済んでしまった。
 記憶のなかの『濹東綺譚』は、もうすこしネットリ描かれていたのだったが、読返してみると、あんがい始末好くサバサバと、いわば段取りどおりに運ばれている。読む当方が脂ぎった老人になったということなのだろう。
 そうさなぁ、荷風を読み直してみようか、などというアイデアも、頭をかすめた。

 森下で大江戸線から新宿線へ、都営地下鉄同士の乗換えでひと駅、菊川に着いた。通夜が始まるまでに、まだ小一時間ある。
 初めての街だから、商店の構えや街並みを、なんとなく眺めて歩く。お隣の森下と同じく、一本裏道へ折れると、商店をほとんど視かけなくなる。かといって住宅一色というのではない。町工場や、自営の加工場や、作業場などが眼を惹く。なにせ川や運河に囲まれたり挟まれたりしている一帯だ。川っぷちの倉庫や、部品製造工場、組立て作業場などが伝統的な地場産業だったのだろう。
 それでいて新住民のカタマリ、高層マンションもあちらこちらに見える。

 小一時間のあいだに、用紙問屋からの納品なのだろう、人の背丈ほどもあるロールに巻き取られた紙を運ぶトラックが、三台も通り過ぎていった。
 資源ゴミ回収日に当っているとみえて、色分けされた樹脂コンテナが辻々に置かれ、ペットボトルだの空き缶だのが寄せられている。レッドブルがずいぶん飲まれている街だ。

 交差点の地面で、視なれぬものを眼にした。四隅を繋ぐ四本の横断歩道の内側に、断続矢印のような、水色のマークが描かれている。しばし眺めて、立ち尽した。
 そこはもう通夜会場までほどなくだったので、友人が一人やってきた。一別以来の挨拶を交したのち、なにかなコレと、訊ねてみた。私は車の運転をしないので、交通標識や路上ペイントマークに関しては、はなはだ無知なのである。だが、普通免許保持者の友人も、憶えがないと云う。
 時を経ずに、次の友人がやって来た。彼は学生時分から、運転を趣味のひとつにしていたような男だ。挨拶もそこそこに、訊ねてみた。その男でさえ、気にしたことがないと云う。たゞ描かれている場所から想像するに、原付バイクや自転車はココを通れという指示だろうとのことだった。
 なるほど、位置関係からすると、いかにもさようである。彼らが知らぬということは、それほど普及しているマークではないのだろうか。

 後刻、調べてみた。「自転車走行指導帯」というらしい。自転車に歩道走行されては歩行者が危険だ。かといって自転車専用通行帯も設定できない場合、車道混在と称されて、自転車は車道を走れということとなる。そのさいの自転車走行帯の目安だそうだ。しかしそこは自転車の専用帯ではなく、自動車もバイクも走れる。ということは、自転車の安全はべつだん保証されまいと、とかく諸説絶えぬ法規だそうだ。
 たゞ歩行者安全の観点から、自転車に車道へ出てもらうための、お誘いお願いのようなマークだそうだ。
 それは解った。だったら普通は車道に沿って、歩道寄りに連なっているのだろう。交差点の内側に、四辺形状に連なっているのはなぜか。

 この地域には、原付バイクや自転車の荷台に、小ぶりの製品や材料や、部品や工具を乗せて往来する人が、少なくないのかもしれない。それらには丸腰の横断者との接触を避けねばならぬ必要があるのかもしれない。歩行者だって、そんなもんと接触したくはなかろう。
 または車輛との事故などが起きて、交差点内に品物がバラ撒かれてしまい、途方もない苦労をしたなんぞという災難が、いく度もあった交差点なのかもしれない。そういうかたがたが渡る横断歩道なのだ。
 なるほど、視た憶えがないわけだ。俺の街には、必要ないものなんだなと、妙に感心したのだった。次郎(私の自転車)には、はなから荷台すら付いていない。