一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

わらしべ長者


 今季初物。赤ん坊の頭ほどの巨大な梨だ。

 ご縁がなければ生涯眼にする機会もなかったはずのセレブ月刊誌『ナイルスナイル』から、思わぬ取材を受けた次第を、九月一日に書いた。お眼にしてくださったご近所の大室さんの奥さんから、その雑誌ぜひ一見に及びたしとのご連絡があった。見本バックナンバーと掲載誌との二冊が手許にあるので、いつでもどうぞとお応えしておいた。

 着物や俳句や書道、編集やパソコンや郷土史ほか諸芸百般を身に付けられたスーパー奥さんで、東日本大震災直後からご夫君ともども東北地方へと移り住んで長期間の支援に入られ、獅子奮迅のご活躍をなさった。想像するに最前線の現場では、できることはなにかなどと悠長に考えていられる状況ではなく、立場も資格も経験も関係なく、あれもこれもヤルッキャナイという差迫った必要のなかで、岩手での移動図書館を振出しに宮城・福島と居を移されながら、ご夫妻協力の何年かを過された。
 東京へ戻られてからも、へぇ世の中にはさようなお仕事もあるのかと、私ごときには想像つきかねる、さまざまなお役目を果してこられた。
 今回はまた、いずこかの筋からの仕事で、セレブ雑誌の企画編集にでも関係されることになったか、『ナイルスナイル』を参照なさろうとてかと、私は即座に見当を付けた。
 ―― いくつお仕事をなさるおつもりか。今度はまた、なにごとが始まるのか?

 で、本日ご来訪。伺ってみたら、私の見当は外れていた。だいぶ以前にご夫君がこの雑誌に、執筆者として関わっておられたとのこと。
 ―― へぇ、この雑誌、まだ続いてたのかぁ。懐かしいなぁ。
 とのことだった。それは奇遇。歓んでお見せし、お持帰り願った。
 お手土産とおっしゃって、福島から今日届いたばかりという巨大な梨を頂戴してしまった。支援活動をとおして結ばれた絆は今も固く、かように産地直送の特級品が届くそうだ。以前には、三陸から届いたとおっしゃって、牡蠣と帆立を頂戴した。今回は福島である。
 

 お土産はもうひと品あった。スプーンだ。こちらは新潟の燕三条からとのこと。ナイフ・フォークを始めとする金属洋食器や調理器具や刃物の名産地だが、工業デザイナーや技術者が多い土地柄ゆえ、現代ではセラミックや樹脂製品も多彩なのかもしれない。
 奥さんのご説明を皆まで伺うまでもなく、スプーンの形をひと目視て、これは好いと私には用途が直観できた。アイスクリームやヨーグルトのカップの、側面と底面の継目の角まで無駄なくすくえるスプーンである。
 冷凍庫にはチョコミント味のアイスクリームが買い置いてある。さっそく試してみたことは申すまでもない。期待どおり、まことに具合がよろしい。末永く愛用しようかと思っている。

 ただで配布された見本誌と掲載誌が、大ぶりの梨と意表を衝くスプーンに化けた。ちょいとしたわらしべ長者の第一歩といった気分である。

名残の彼岸


 彼岸の入りも中日も、空模様が……。尻込みしてしまった。

 台風一過の秋晴れ。墓参り日とする。さてご本尊へのお供えは、いかにしたものだろうか。悪天候を押してでも、墓掃除に出向き、お詣りを済ませた律儀な檀家衆も少なくなかろう。すでにご本尊の前には、選りすぐられた和菓子の化粧箱が、うず高く積みあがっているにちがいない。
 彼岸の入りに先頭切ってお詣りするのであれば、まずは皮切りの縁起ということもあろうから、例年の菓子折りをお供えするもよかろう。が、中日を過ぎた、いわば出遅れ参詣の身となれば、少々気が差す。

 栃木市の古刹の娘さんが、わが教室の一員だった時期があった。盆暮れや春秋お彼岸には、必死で甘いものを食し、決死の覚悟で太ったものだったと、笑いながら話してくれた。にわかには笑えぬ噺だと、私は聴いたものだった。
 かく申す私も、それまで菓子折りをお供えすることが多かった。が、以後は考え込むようになった。菓子以外で、なるべく日持ちのするものをと、工夫するようになった。仏さまは好き嫌いをおっしゃらない。時には四つ足や魚介(つまり殺生したもの)だって拒まずに召上る。文献を調べもせず、さよう独断した。ご住職や宗教学者から叱られたら、その時また考えることにする。

 奈良県には、こども食堂や老人介護施設や、災害時の避難所やホームレスへの炊き出しなどを、お寺さんと結び付けて食糧の有効利用を図るネットワーク活動があって、NPO 法人化されているという。たまたま私が耳にしたのが奈良県の例で、じつは全国にかようなネットワークが張り巡らされてあるのだろうか。私が無知なだけだろうか。ありがたい取組みと思う。

 まず花長さんへ。おかみさんとお嬢さんが書入れどきだった。大将のお姿が見えない。小さなお店だ。全員総出も手が混むから、シフトを敷いて交代なさるのだろう。
 金剛院さまへ向う。水場はすでに混雑したあとらしく、水桶が出払っている。まだ午前中というのに、この賑わい。私と同様に、中日過ぎての墓参にお気が差されて、早朝からどっとお出ましになられたのだろうか。たった一つ残った桶に買ったばかりの花を挿し、確保する。やがて奥から追加の桶が補充追加されることだろうが、まずは自分優先で一段落だ。
 庫裡にてご挨拶。ご本尊へのお供えをお願いし、線香をお分けいたゞく。

 どなたさまがお詣りくださったのだろうか。拙家墓前に線香が供えられ、すでに煙を揚げている。長さから察するに、つい今しがた焚かれたばかりと見える。周辺にそれらしい存じよりのお姿も見えぬが。花も上っていない殺風景な拙家の墓を、どう思われたことだろうか。
 数日来の風雨でホコリ汚れしている墓石と台座と花差しとを、ごく粗雑に洗ってから、花を供え、私の線香を足した。改めて墓石に水をかけ、向う三軒両隣の墓前にも水撒きして清める。花長さんで見つくろっていたゞいた本日の花束には、桔梗が含まれていた。母がもっとも好んだ濃紫である。

 父母が生前ご縁あったかたや存じあげたかたのご墓所をひととおり巡り、柄杓に一杯づつ水を差して歩く。どちらさまにもすでに花が上っていて、いかに私が出遅れたかが改めて知れる。
 無縁仏が合葬されている観音さまへも、水を供える。私の終着点となろうから、予約根回しの想いだ。

 昼下りへ向けて、まだまだ墓参者は増えることだろう。水桶をさっさと水場へお返しし、身軽になってから、本殿へお詣り。光明真言を三度唱える。
 府内霊場八十八か所のうち第七十六番札所となっている大師堂へもお詣り。観音さまの前も、当山中興の祖の石碑前にも咲いていた赤花の彼岸花が、大師堂前にも咲いていた。
 大師さま銅像を囲むミニ四国をも一巡。各国に光明真言を唱え捧げて、本年の出遅れ彼岸会を了える。

台風接近


 続けざまの台風接近。今回は「これまでに経験したことのない強風」でない代りに、雨台風だとのこと。東京二十三区西部(ウチじゃねえか)は洪水警報が発令された。はて、あたりには川も湖も視当らないが。

 新潟の従兄から、新米が届いた。この季節が巡ってきたかの想いだ。先の台風では不安な想いをされたろうに、そんなおりからよくもまあと、ありがたさひとしおだ。
 保険外交員として地道に勤めあげた従兄で、退職後は防災の勉強や地域活動に精を出している。優秀な奥方は、地元の大学で講師を務めたが、定年後は日本語学校の先生をしている。息子二人は、すでに独立した。
 私と同齢の従兄で、私と同じく血圧やら心臓やら気を抜けぬ体調を抱えてはいるが、まずは一病息災といった暮しができている。季節々々に郷里の産物をお贈りくださる。

 世界的な食糧難だそうだ。人口集中国家のパキスタンでは、国土の三分の一もが水に浸かったという。お隣インドはかんばつの年で、最大のお得意さんだった中国への米輸出を停止したという。そのぶん補充すべく中国が他の国から米を買いあさるとなると、世界の米相場が動くこととなろう。
 それでも米はまだマシで、小麦や玉蜀黍は絶対量が足りないそうだ。それに疫病と戦争。人心の問題もさることながら、食糧相場の急変動という具体的かつ身近な問題が、これから深刻になるという。世界で深刻化しているのは、ひとりエネルギー経済のみならんや、ということらしい。

 デスクで読み書きしていると、ついついひと休みする気分になってパソコンを開け、検索遊びに耽ったり YouTube に観入ったりしてしまうので、台所へ移動して作業する。同じスツールに腰掛けてばかりいると、尻が床ずれの初期症状になりかねない。パソコンが過ぎると、眼の奥も痛くなる。ヤレヤレ齢はとりたくないものと、毎度肝に銘じるが、また同じ轍を踏む。台所は避難場所でもあるのだ。
 昨日今日は、アイスというよりホット珈琲かなとの気分で、そうだったと思い出したのは、便利なインスタント・ミルク珈琲だ。好みに合う味で、ささやかなトッテオキである。
 お向うの粉川さんの奥さんから、裏手の樹の枝葉が落ちて雨樋を詰まらせて困るから伐りたいのだがとのご相談で、懇意の植木職人さんへお取次ぎした。そのお礼に見えたとき手土産にいたゞいた。このあたりのスーパーでは見掛けない品で、ありがたくトッテオキとさせてもらっている。

 せっかく台所にいるのだからと、煮物を仕立てながら作業する。前回煮てから、まだ一週間だ。たっぷり煮たつもりだったが、久しぶりの野菜煮につき朝に晩に突っついてしまい、三日でなくなってしまった。
 今回の相棒は油揚げでなく、雁もどきだ。やはりこれでないと私流の味としてピッタリ来ない。隠し味にいつもの刻み生姜に加えて、鷹の爪一個を細かくして放り込んでみた。汁は辛くなるが、具の味は深くなった。
 大北君からのジャガイモの残り半数を使用。これで頂戴したご丹精のすべてを消費しきった。

 いたゞきもので暮している。世界的食糧難も、今のところ私には影響していない。一老人が大状況を云々しても始まらない。ありがたいご縁が、私を生かしていてくださる。
 天の時は地の利に如かず、地の利は人の和に如かず。孫子の兵法だが、組織論と軍略の教えとして、若いころは読んでいた。違うね、どうやら。処世全般の噺だ。
 修身斉家、治国平天下。論語だが、この順序でなくてはならない。逆ではない。

時間差


 絡みあった花は、そのまゝにしておく。

 遠くを通り過ぎた台風の余波で二日間、時おりの雨と不意の突風に見舞われた。開花して頭でっかちになっていた彼岸花にとっては、災難だった。
 B 地点(二番目に開花し始めた株)は茎を五本も立てた大所帯だが、一日目に一本が、二日目にもう一本が、深ぶかとお辞儀するようにしなって、花を地面に着けそうになった。茎が折れるふうでもなかったので、あたりの素焼鉢を周囲に伏せ置いて、寄りかゝらせるようにして、立たせておいた。屈めさせたまゝのほうがかえって無事なのだろうかとの思いも湧いたが、やってみた。

 台風一過、陽気がもどって、恐るおそる鉢をどけてみると、すっくと立ち直っていた。それどころか、花弁同士が絡まって、スクラムを組んで協力しあうようにして立っている。一時は身を屈めていた二本も含めてである。
 たんに風に揺すられているうちに絡まったに過ぎぬのだろうか。それとも植物の本能のなかに、一本では立ち続けられなくとも、絡まりあって風への抵抗力を増しあうような習性が備わっているのだろうか。

 植物の意識、という他愛もないことを考える。思えば、メーテルリンク『青い鳥』の第何場だったか、チルチルとミチルが深い森の奥へと迷いこんで、巨木老木たちの嘆きを聴かされる場面があった。じつに長い年月にわたって、横暴な人間たちから受けてきた暴力や災厄を、巨木老木たちは次つぎに語って尽きなかった。
 子ども読者・観客のみならず、おとな読者・観客だとて、なんの違和感もなく樹木たちの台詞を聴かされて、共感してしまう。メーテルリンクの力量ということもあろうが、人間の裡に、植物も意識を持っているのではないかとの予感が共有されてあるのではなかろうか。あるいは意識を持っていて欲しいとの期待か幻想かが。
 ちなみにメーテルリンクは、昆虫とくに蜜蜂の観察家・研究家でもあった。
 

C 地点、新たに参入。

 ところで、B 地点写真の最奥の塀ぎわに、かすかに一点の白花が写りこんでいる。これが C 地点だ。毎年最後に開花する。敷地の北東角で、建屋の陰となって日照時間が乏しく、南風も西風もこゝが袋小路となる。生育環境がもっとも劣悪なのだ。
 今は茎一本だが、もう一本か二本、後続の茎を伸ばしてくるかもしれない。これらも、少しはマシな条件の場所へ、つまりは B 地点のそばへ、移してやらねばならない。

 

 もっともマシな環境で最初に開花した A 地点では、先頭を切った一輪と二番手とはすでに出番を了え、風雨のなかで萎んだ。これらが咲いていたときには、まだ地上十センチの幼芽だった後続が、今開花しようとしている。この A 地点の連中も、いつか B 地点付近へと移植せねばならない。やがて拙宅ではなくなる場所だ。
 こんな狭い敷地のわずかな環境差をも、彼らは敏感に感じ分けて、時間差をつけて順ぐりに咲く。

品格


 テレビを観る習慣がないので、せめてネットニュースでもと思い立ち、英国女王の棺を埋葬地へと運ぶ葬列のライブ中継を観た。

 高度経済成長期の後くらいだったろうか、かつての大英帝国の威容はもはや影をひそめたと、さかんに云われた時期があった。いかなる数値を取沙汰したのだったか、わが国はすでにイギリスに追いついたなどとも云われた。本当かなと、私は疑ったものだった。
 あるとき浅薄なテレビ番組に、たまさかロンドンの市中レポートがあって、三階建てだか四階建てだかの集合住宅で、材木とガラスと鉄が組合さった古風なエレベーターがガタンゴトンと動いていた。ご覧なさい、ロンドンでは今でも、こんなオンボロ・エレベーターを使っているのですよと、云わむばかりの番組作りだった。恥かしかった。

 十階建てのビルであれば、当然イギリス人だってなんとか工夫するに決っている。低層ビルではこれで間に合う、速度も強度も積載量も十分と判断したからこそ、古いものをメンテナンスしながら使い続けているのだろう。東京オリンピックを目処に、むやみやたらに壊しては造り続けて、進歩だ発展だと自画自賛の真最中である土建国家とは、わけが違うのではないかと思えてならなかった。
 好し悪しの問題ではなく、古い新しいの問題でもない。文明の局面が異なるだけのことだ。イギリス人って、たいしたもんなんだなと、わけもなく感心した。

 半世紀以上経った今、日本ではまだ現金で買物をしていると嗤う外国人があるそうだ。肌に彫りものを入れることを嫌う国民が多いとは、なんと世界標準から遅れた国だと嗤う外国人もあるそうだ。文明の局面にも、文化的いきさつにも、美意識価値観にも無知な外国人の云いぐさだと、私には思える。大きなお世話だ。放っといてくれ。来る気があるなら、慣れるなり学ぶなりしてくれ。

 民放番組の司会者だかコメンテイターだかが、葬儀というより壮大なショウを観ているようだと、揶揄して云い放ったと、ネット上を賑わしているという。なんたる無知だろうか。
 ショウですよ。決ってるじゃないか。儀式はみんなショウです。アンタだって、これより何百倍もわざとらしい結婚式というショウを演じて、ご家族をもたれたんじゃありませんかね。
 ネットニュースのあいだじゅう、葬列もさることながら沿道の市民たちを、注意深く観てみた。市民のおゝかたは、馬鹿騒ぎするでも涙にくれるでもなく、つまり興奮せずにショウを眺め、参加してもいた。やはりイギリス人って、たいしたもんだ。

 ヘリコプターかドローンかによる上空からの映像も挿入されたが、先導バイクや霊柩リムジンのドライバーたちも見事だった。側近として棺に触れる近衛兵はもちろん、軍楽隊や、日本で申せば八瀬童子たちも見事だった。華美に流れることもなく、さかしらに勿体つけることもなき、整然たる儀式だった。
 女王崩御から日数も少なかったのに、危うげのない進行だった。女王ご高齢につき、この日あるを慮って、かねてより構想されてあったのだろうか。
 わが国の元宰相にたいしても「国葬儀」なるものが催されるらしい。当日記は天下国家には触れない。賛否是非は論じない。が、英国女王の場合よりは日数もたっぷりあった。なにごとにつけても、緻密に執り行う職人気質の人材豊富なわが国のこととて、心配はしたくないが、催すからには品格を損なうがごとき下品な儀式は恥かしい。
 豪華豪勢は下品である。質素にして精神性高雅なるを好しとする。かつては日本人の得意分野だったはずだが、昨今の風潮を考えると、少々不安だ。

 横たわる女王のおそらく頭のあたり、棺の上には王冠が置かれ揺るぎもしない。わが国の元宰相の祭壇には、具足としてなにが供えられるのであろうか。白鞘の刀剣だろうか。生涯使ったことなどあるまいし、所持した経験すらなかったろうに。女王はこの王冠を頭上に、いく度となくお出ましになったのである。

かくれもない


 「ひさご」の女将おチカさんが珍しく記者クラブを訪問している。どういう場面だったのだろうか。

 昨日の続き、NHK 初期のテレビドラマ『事件記者』の一場面である。共有スペースである応接セットに呉越同舟寄合っての談笑。坪内美子さんもご一同も笑顔だ。左端が日報のベーさん、右端がタイムスのアラさんだ。まん中でタイムスのキャップであるクマさんが煙草をくゆらせている。
 背景の右寄りが日日のブースだ。なにかと口うるさいキャップである日日のウラさんは留守のようだ。左寄りがタイムスのブースで、主役級が勢揃いする日報のブースはさらに左へ入ったところにある。


 おチカさんが記者クラブを訪ねても、意外ではない。つね日ごろのご定連客がたの職場へ、ご挨拶の機会があってもおかしくはない。それに日報のエース記者イナちゃんの奥さんは、どうやらおチカさんの娘だ。つまりおチカさんは、東京日報の一記者の義母でもある。連絡事項が発生することだってあっただろう。
 かといって娘婿さんの職場に私事を持込むような女将ではない。この場所に彼女の姿があるのは、ほんとうに珍しいことだ。

『与太者と小町娘』(監督 野村浩将、松竹蒲田、1935)

 さかんに樹を伐り倒しては、トロッコや馬で運び出す林業の現場が、『与太者と小町娘』の舞台だ。サイレント映画で、重要台詞だけ黒ベタに白抜きの字幕画面が挿入される。
 A 山の人足を束ねる親方の一人娘が坪内美子さんだ。隣の B 山は別の組の持場で、いかにも悪漢面した巨漢の親方が仕切っている。その親方が坪内さんに懸想していて、繰返ししつこく言寄り、A 組へも圧力をかけてくる。むろん坪内さんは、B 組の親方なんぞ顔を視るさえ虫酸が走る。そこで A 組人足のデコボコ三人組が、お嬢さんを護るために、てんやわんやの大活躍。
 トロッコでの疾走場面の音楽は有名な「天国と地獄」、二枚目を視詰めるお嬢さんのアップには哀切なバラード。まんま、チャップリン様式である。

『新女性問答』(監督 佐々木康、松竹大船、1939)

 『新女性問答』は今日から観れば、気恥かしくなるほどの女優さんがたてんこ盛リ映画だ。女学校の仲良し七人組の一人が(桑野通子、なんと桑野みゆきのお母さん)じつは親に先立たれて、芸者稼業の姉に育てられたが、仲間には隠している。潔癖な女学生たちは、芸者と聴いただけで軽蔑するような世間知らずなのだ。あるとき事情がバレて、友情に亀裂が入る。苦労してきた姉の朋輩芸者が坪内美子さんである。
 ―― こゝはあなたがたの来るところではありません。あなたがたが軽蔑する、芸者のいるところですよっ。(キリッ!)

 東京文京区のお生れ。銀座の有名カフェの女給さんだったところをスカウトされて松竹入り。サイレント映画の時代である。デビューの昭和八年には六本、翌九年には十三本の映画に出演している。世は左翼壊滅の大転向時代。深刻に失望して行き暮れた青年たちは、いかなる想いを抱いて、この女優さんを眺めたのだったろうか。
 トーキー映画への移行時代でもある。鼻が詰ったようというのとは違う、鼻のずっと奥のほうで特別な鈴が鳴っているような、独特なお声で、坪内さんの台詞は眼をつぶっていても聴き分けられる。
 清純な町娘から、若奥さん、芸者、女丈夫やちょいと悪女まで、なんでもこなせる達者な女優さんで、やがて松竹の幹部女優の一人に昇進した。
 「ひさご」のおチカさんの、かくれもない前歴である。

田中絹代(左)と坪内美子、『人生のお荷物』(監督 五所平之助、松竹、1935)

 同時期に活躍した松竹女優では、田中絹代さんのお名が後年まで轟くことになる。が、坪内美子さんも引けを取らぬ双璧の存在だ。
 『人生のお荷物』では、性格がまったく正反対の長女と次女として共演した。医者の妻で焼きもち焼きで、取るに足らぬ夫婦喧嘩をしてはすぐ仲直りする、無邪気で可愛らしい長女が坪内さん。洋画家の妻で、サバサバとなんでも要領よく取りさばくモダンな次女が田中さん。面白かった。

事件記者

『事件記者』NHK総合、昭和三十三年(1958)~昭和四十一年(1966)放送。

 警視庁記者クラブをおもな舞台に、新聞各社の社会部記者たちが「特ダネ」目指して知恵と行動力とを尽しあう群像劇。毎回事件発端から解決までの筋立てだが、仲間でもあり狐と狸の化かしあいでもある各社の対抗意識が面白く、人気を博した。
 警察捜査員からいかにして情報を引出すかに苦心しながらも、時に事件解決に協力して報道管制の条件にも応じる。稀には警察を出し抜いて独自の取材成果を挙げ通報協力。代りに記者発表の前に「特ダネ」提供を約束させる交換条件の駆引きもあって、子ども視聴者にとっては、へぇ世の中にはかようなこともあるのかと興味を惹かれた。
 お上からの記者発表や会見を垂れ流すだけでない、「独自取材」を強調した点は、今想い返しても理想的な報道記者像だった。また事件を解決する警察官でも名探偵でもなく、側面から事件に迫る記者という視点がそれまでになく新鮮だった。

 当初は毎週三十分番組で前後半仕立て。二週で事件が解決していた。人気に後押しされてか、ある時期から一時間番組となり、毎週事件が解決するようになった。これが新たな苦労の始まりだったという。
 通常であれば五日なり一週間か前に台本が上り、読合せや稽古(リハーサル)に数日。通し稽古・舞台稽古(ドライ)があってカメラや照明も確認される。翌日がビデオ収録。さらに翌日が放送となる。三十分番組だった時期は、それでなんとか回っていたという。問題は一時間番組に格上げされてからのことだ。

島田一男(1907 - 96)

 台本作者はミステリー作家の島田一男。登場人物が多く、出し入れに苦労する台本である。湘南だか鎌倉だかの島田邸まで、担当者が毎日飛び、その日に上った原稿を受取って来る。それでもリハーサル日程が確保されなくなる。窮余の一策が、前半ビデオ収録、後半は放送時間にその場の生演技でつなぐという、危険このうえもない綱渡り方式だった。
 活力ある記者たちを演じる役者の多くは、新劇の俳優たちだった。長年の放送をつうじて、扮する役の気性から口癖まで練り上げてきていたから、細かい演出や演技指導の必要がなかった。だからこそこんな離れ業ができたのだったろう。

 ある回の後半、生放送の部分では、装置(セット)が突然倒れてきた。手前では特ダネ競争の深刻な打合せが進行しているというのに、丸見えになった奥では、次の出番の役者たちが衣装替えの真最中だった。世紀の放送事故である。
 残念ながら、その回の記憶はない。後年取材中に聴き知ったこぼれ噺だ。記録など残っているはずがない。生放送部分のみならず、ビデオ収録して放送した部分すら、ほとんど残っていない。
 開発されて間もないビデオテープは、たいへん高価なものだった。収録テープをそのまゝ保存するなど、予算からして思いもよらぬ時代だった。使い回して、次の番組を撮り重ねた。今日云うところの「上書き」である。NHK・民放各局を問わず、ある時期までの名作ドラマのほとんどは残っていない。

 記者クラブの外で毎回登場する場面といえば、居酒屋「ひさご」である。記者たちが慰労や気分転換や、情報交換や密談やに、常時出入りした。
 東京日報の八田老人とベーさんの顔が見える。めったにないことだが、ムラチョウとエンちゃん、二人の警察官がいる。ということは、「日報」が摑んだネタと警察との間で、なにか取引きの真最中にちがいない。
 料理を運んできたのは、女将の「おチカさん」だ。新劇畑の多いレギュラー陣の紅一点とすらいえるこの女将さんは、なにを隠そう坪内美詠子さんだ。戦後お名を更えてフリーの脇役女優さんのような顔をして過されたが、かつては銀幕の大スター、松竹の幹部女優だった坪内美子さんである。
 坪内さん出演作品に、容易に観られるものが少ないのを、私はかねがね不服に思っている。