一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

人の親


 去年の夏、竹を植えるころだ。うっとうしい節ぶしばかりのこの世に、娘が生れてくれた。俳諧師として少しは知られるようになって、郷里へ戻って妻を持ったのが五十二歳。初めての子さ。理不尽なことばかりの世に、せめて聡くあってほしいとの思いから、「さと」と名付けた。

 今年の誕生祝いのころともなれば、「よちよち、アワワワ、天こテンテン」首を傾げてみたり頭振ってみたり。いやはや親馬鹿チャンリンさ。
 よその子が風車を振って遊ぶのを視て、しきりに欲しがってむずかるから、よしよしと持たせてみれば、すぐさま口へ入れてムシャムシャしゃぶって、美味くもねえとすぐ捨てちまう。
 ひとつのことにこだわる気なんぞなく、心はすぐ次へと向いちまって、そこらの茶碗を放り投げておっ欠いちまう。それにもすぐ飽きちまって、建具の桟へ手を突っこんじゃあ障子紙をメリメリ毟る。「よくしたよくした、元気じゃ元気じゃ」と誉めてやると、その気になって、きゃらきゃら笑いながら、ひたすらに障子を破ってまわる。
 心に塵ひとつなく、名月に雲ひとつない清すがしさに、名人役者の芸を堪能したあとみてえに、まさしく心のシワも伸びるって思いがしたもんだ。

 通りかかった大人から「ワンワンはどこ?」と訊ねられると、モミジの手で犬を指差し、「カアカアは?」と問われればカラスを差す姿ときたらもう、口もとから爪の先まで愛らしさがこぼれ出て、春さきの若草に胡蝶が戯れるよりも優しい眼福と感じたねえ。
 そんな幼き身でもね、仏様のお守りもしたんだぜ。陽暮れて持仏堂のロウソクに灯を点して、チーンと鈴を打鳴らすとね、どこにいようが急いでやってきて、小さな掌を合せて、なんむなんむと唱えやがるのさ。その声ときたら、しおらしくて、ゆかしく懐かしくて、あたしゃあ心打たれずにはいられなかった。

 引きかえこちとらときたらよ、髪には白いもんが目立ってきやがった。額は波を打寄せたようにシワだらけよ。仏縁を結ぶ修行もからっきしのまんまに、うかうかと歳月だけ費やしちまって、二歳の子に会せる顔がねえや。
 さよう思うくせに、座を移せばすぐにまた地獄の種蒔きを始める。膝の周りに寄ってくる蠅を憎んでさ、膳に群がる蚊を追い払う。殺生しまくりなんだわ。あまつさえ、仏さんが戒める酒を、あたしゃあ飲むからねえ。

 いつだったか、玄関に月の光が射す涼しい晩があってね、近所の子らが唄い踊るわらべ踊りの声が聞えてきたんだわ。すぐさまうちの子は、食いかけの茶碗をおっぽり出してね、膝でいざるように玄関口まで出てさ、声をあげ手真似しては、嬉しそうにしていたっけ。
 いつかこの子も、と思うやね。振分け髪も肩過ぎぬって「井筒」に詠われてるやつさ。踊らせてやったら、玄人の管絃の調べより何倍も観応えあろうがなあ、なんぞと思えてねぇ。わが身の老いも一瞬忘れて、この世の憂さも晴れる心地さ。

 そんな日々だったが、子どもってもんは起きてるあいだ、一瞬たりとも手足が止るってことがねえや。そのくせ遊び疲れたとなりゃあ、陽が高かろうが眠り続ける。母親にはつかの間の正月さ。掃除めし炊き手早く片づけちまって、団扇をパタパタ、汗を拭ってひと休みさ。
 寝屋に泣声がすると昼寝終了の合図。あっという間に抱きかかえちゃあ、裏の畑でシーシータイム。んでもって乳房をあてがえば、子どもはスパスパ吸いながら、母親の胸板を拳骨で叩いて、にこにこ笑顔を見せるだけさ。
 トツキトオカの苦しみも、死んだがましの痛みも、汚れたオシメを換える毎日をも、みんなみぃんな忘れちまって、産着のうちに宝珠でも賜ったかのように、撫でさすっては独り悦にいっているありさまだった。

   蚤の迹かぞへながらに添乳哉  一茶

 あのあたりまでだっかねえ……。

一朴抄訳⑩

貸し借り

横浜元町、霧笛楼。

 仏蘭西料理のレストランらしい。オリジナル洋菓子店でもあるらしい。むろん知らない店だ。豪華な菓子詰合せをいただいた。
 チョコレートが強調されている。濃厚なチョコクリームをたっぷり仕込んだ煉瓦型ケーキの外側を、さらにチョコで包んだ、ダブルチョコレートケーキは、初めての味だ。姉妹品のホワイトチョコケーキは、やや軽い甘さが上品だ。詰合せの彩りは、小分けにスライスされたフルーツケーキ二種類。片方のレモン味がもっとも気に入った。主役のチョコに引けをとらない。

 昨年夏に神奈川県に住む女の従姉が亡くなった。家族葬で済ませたとかで、ご連絡はいただかなかった。疫病禍のなか、お気を遣われたのだろう。師走に入ったころ、ご主人からの喪中ハガキを受取った。
 きちんとした職業に就き、ご家族もあり、お暮しぶりにいささかの不安もあるご家庭ではない。今さら香典もそぐわぬ気がして、あえてクリスマス過ぎまで日延べして、年末押詰ってから迎春用に、花を手配した。
 すると、書状に添えて仏蘭西菓子をいただいてしまった。かようなお気遣いは恐縮なので、あえて香典は包まず、花をお供えしたのだったが。むろん先様のお気持ちは十分に理解できる。そのうえで、むずかしいもんだなあと、改めて思う。

京都左京区阿闍梨餅本舗 京菓子司満月。

 京都左京区の老舗和菓子店らしい。支店は金閣寺のすぐ近くらしい。むろん行ったことはない。豪華な和菓子詰合せをいただいた。
 昨年もたいそう美味しくいただいて、詰合せの内訳についてこの日記で紹介した憶えがあるので、繰返さない。とにかく美味い菓子である。

 親しくしていた東京郊外に住む男の従兄が急死して、もう何年になるだろうか。心臓と大腸とで二度も救急車騒ぎを起した独り住いの私を、医師だった彼はことのほか気遣ってくれていた。みずからの病が発覚し急進行して床に着いてからも、自分はアイツ(つまり私)の身元保証人だからと、気遣ってくれていたと、没後奥様から聞かされて、改めて面目ない気持ちに沈まざるをえなかった。

 郷里を出て関東に住む親戚とは、お互いさまだからと申し合せて、中元歳暮のやりとりはしないことにしてある。だが一家の大黒柱を失って、急に夫人とお嬢さんがたの女性家庭となってしまったこのご家族だけには、毎年末にご仏前へのお供えをお届けしてきた。珍しいものでも高価なものでもない。ありふれた正月食品だ。迎春の手間をいささかなりとも軽減していただきたいと願ってである。
 これは歳暮ではない。仏前へのお供えだと、毎回のように申し添えてきた。にもかかわらず、お返しとして、珍しいものをいただいてしまう。むろん先様のお気持ちは十分に理解できる。そのうえで、むずかしいもんだなあと、改めて思う。

 芝居か映画で観たんだったか、小説で読んだんだったか。記憶している台詞がある。
 「あぁ、誰からも泣かれずに死んでゆくのって、むずかしいもんだなぁ」
 まったくだと当時も思ったもんだったが、今となってはよけいに想う。それどころか、もっと手前の困難がある。手前にあるだけに基本的で、よりいっそう難題だ。
 有形無形を問わず、心理的か物質的かを問わず、金に換算できるかできぬかを問わず、どなたに対しても貸しも借りも残さずに、自分の幕引きをすることは、なんとむずかしいことだろうか。泣かれも嗤われもせずに、「あ、そう」と私の訃報を聴いていただくことが、とてもむずかしそうだ。気が滅入る。

まま子


 むかし大和の国は立田村ってとこにね、おっかねえ女もあったもんで、まま子に十日も飯を食わせなかったってさ。しかも椀に山盛りの飯を見せびらかして、
 「あの石地蔵さんがこれを食べたら、おまえにもやるよ」だってさ。
 子はひもじくてひもじくてならねえから、石仏の袖にすがってしかじかと次第を訴え、どうかどうかと一心に拝んだ。そりゃそうだわな。
 するとどうだい、石の地蔵さん、やおら大口開けてむしゃむしゃと、椀の飯をすっかりたいらげちまった。
 これにはさすがの鬼まま母の角もポッキリと折れてね、それからってもんは腹を痛めた実の子と分けへだてなく、育てるようになったとさ。
 その石地蔵菩薩さまは今でも村にあってね、節季節季のお供えもんが絶えねえそうだ。

   ぼた餅や藪の仏も春の風  一茶

 まま子が割を食った句には、事欠かねえや。芭蕉翁だって俳諧に詠み込んでいなさるが、こりゃまあ、前句との付け筋の具合もあるから措くとしても、他にもこんなのがある。

   竹の雪はらふは風のまゝ子哉  正勝
   うつくしきまゝ子の貌の蠅打ん  紅雪
   なげゝとて蚊さへ寝させぬまゝ子哉  未達

 源流っていうかねえ、旧いところじゃ、こんなのもある。

   小さき土鍋のありけるを我腹の子にとらせて、とらせざりければ、
   鶯の鳴をきゝてよめるとなん。

   鶯よなどさはなきそちやほしき
     小鍋やほしき母や恋しき  貫之娘

 ♪ 親のない子はどこでも知れる 爪を咥えて門に立つ~
 子どもらが戯れに囃す唄ってのは、残酷なもんさ。囃したてられたほうは、堪ったもんじゃねえや。遊び仲間もほとんどできずに、畑の隅っこに積みあげられた刈萱の山の陰にうずくまって、日暮れまで時間つぶしさ。我ながら、哀れなもんさ。

   我と来て遊べや親のない雀  彌太郎(六歳)

 彌太郎はあたしの幼名さ。五年前に別のところで「我と来て遊ぶや親のない雀」と出してね、そん時は「八歳」としておいた。このたび六歳と換えたには事情があるが、それはまぁいいや。
 それより「遊ぶや」を「遊べや」にしたことさ。雀どん、遊ぶべえよ、と下手に出て語りかける気分だったんだが、「遊べ」「遊ぶべし」と雀に命じているかのようにお読みなさる人も、あるそうだねえ。
 まぁ句なんてもんは、どうお読みくださっても、よろしいもんだけんどもよ。

一朴抄訳⑨

冬枯れ明け

冬枯れの向うに入試、新学年。

 学年末の試験前か。学生はまばらだ。大学はまだ、冬枯れの向うだ。

 原稿の〆切日だ。編集部は文芸学科内にある。持参する。メールに添付するかたちで送稿済みだが、プリントアウトした紙原稿も渡す。無駄のようだが、私のやりかたである。預っていた資料も返却しなければならない。
 原稿は選考を了えての感想すなわち選評だから、読ませてもらった候補作品原稿もある。けっして外部に漏らせないものだ。編集部員に直接手渡すのが安心だ。

 大学はまだ冬の気配だった。体温チェック機の前に立ってから、守衛所へ顔を出す。顔見知りばかりだ。来訪者台帳にサインして、訪問相手や用件や入構時刻を記入する。すでに部外者だから、紐付きの入構許可カードを手渡され、首から掛ける。で、学科の事務室を訪ねる。
 質問だか手続きだかの学生が、受付窓口で助手君の一人を相手に用を足している。行列して待つ。別の助手君が私に気づいてくれて、どうぞこちらからと、講師応接室の扉を示してくれる。いわば無審査入場口だ。ありがたくはあるが、そうはゆかない。今では外来者だ。特権を辞して、かたくなに行列の尻尾についた。

 雑誌編集とは、要するに雑用の大群である。学科の助手君たちが手分けして担当してくれている。将来の文筆家か編集者か教員だろうから、実地インターンのごときか。
 ご苦労には、ほぼ想像がつく。なん足かの草鞋を履きながらも二十三年間、出版界の隅っこに身を置いた。同時に「売れない」文筆業者だった。これらの経験から、〆切は固い男だ。原稿も読みやすい(はずだ)。出来の水準が高いかどうかは別として。
 雑魚として業界を泳ぎ渡るうちに、身に着いた手管である。とんでもない駄作を書いてしまう度胸がなければ、佳いものなど書けはしない。これも身に着いた覚悟である。
 おのが優秀さと馬力とで突破できる若者は、参考にしなくてよい。が、ほとんどの若者は、憶えておいたほうが身のためだ。

 用件はあっけなく済んだ。すぐにおいとまする。学科事務の奥の講師休憩席へでも通って、お茶の一杯もよばれて、近況噺や世間噺でもすれば、助手君らや事務員さんがたとより一層のよしみを深められるかもしれぬが、じつはこの時期、大学というところは忙しい。愛想なしのようでも、長居は無用だ。
 食堂やら、美術学科の作品展示室やら、歩き回ってみたい場所がキャンパス内にないでもないが、やめにして、さっさと学外へ出ることにする。
 守衛所では、面々としばらく立ちばなしする。登校学生がまばらな時期だし、神経を使う入試関係の多忙が始まる前だから、ここはのどかだ。ただし寒い。
 喋りながらあたりを視まわすと、植込みの灌木類はすでに、圧倒的な勢いで芽を膨らませている。そういえば拙宅の桜も、枝にへばり付いた粒つぶはすでに丸みを帯び、心なしか色も変化してきたんだった。植物はつねに、人間より敏感だ。

 植物だけではない。学生の姿がほとんどない構内を悦び勇んで歩き回るのは、というより得意のダンスを披露しながら往き来しているのは、数羽のセキレイたちだ。鳥のなかでは比較的に、人間の姿を怖れない。こちらから歩み寄ると数メートル間合いで遠ざかり、こちらが引下がると戻って来る。彼らにとって価値のある種子か花粉か小虫か、人間の眼に見えぬ何かがあたりに散らばっているのだろうか。彼らにとっても、もはや冬は明けているにちがいない。

 さしあたりセキレイとは利害対立しそうもない。私は私で、朝食抜きで出掛けてきている。大学を訪ねた帰りには立寄ることにしている珈琲館へ移動することに。大好物のシナモントーストで、本日一杯目の珈琲を飲むつもりだ。

生涯一尺


 高井郡六川って里にある山の神の森で、栗を三粒拾ったもんで、庭の隅に埋めておいた。芽を出して、艶つやしい若葉も嬉しそうだったんだがね。

 東隣が境界一杯まで、次つぎ建て増しするお宅でね、栗の幼木には陽も射さなけりゃ雨露の恩恵すらろくに届かねえ始末さ。つねに水不足なんだもの、ようやく一尺になるかならぬかで、年末を迎えちまった。
 雪深いこのあたりの風習でね、冬ともなれば、各家の屋根から降ろした雪をね、往来だろうが余所のお宅の庭だろうが、低い土地へは我先に積んでゆくわけさ。わが家の庭にも東から西から、南から北から、ひたすら雪が落しこまれてねえ。しまいにはどこへ行くにも、屋根より高い雪山越しに出入りするみたいになる。
 暮しに不便は誰も同じさ。水だ燃料だを運ぶにさえ道は必要。積った雪に階段だの坂だのが自然とできて、もともと庭だったところが愛宕山の上り下りさながらの、階段越えする雪山みたいになっちまう。

 そうして二月三月、陽気もようやくのどかになってきて、村内の命綱の畑には土が顔を出し草も芽吹いてくる。先を争うように、早咲きの花がちらほら見えてくる。そうなってもわが家の庭は、陽当りも悪いし、寒風の通り道さ。残雪に埋れたまんまだ。
 らちが明くのは、そうさなあ四月に入って、便所に紙下げ虫のまじない歌を貼るころ、つまり山鶯が折知り貌に鳴くころかねえ。なに、さっぱりお解りいただけねえってかい。そいつぁ面目もねえこって。

 紙下げ虫ってのは、便所の糞壺に湧く蛆虫のこってす。四月八日の仏生会に、甘茶で墨を磨って「ちはやぶる卯月八日は吉日よ紙下げ虫を成敗ぞする」って歌を書いて、便所の壁に貼るんでさ。いくらかでも清潔に、健康に過せますようにって、まぁご利益なんぞ期待できそうもないマジナイだがね。
 それから里へは降りて来ねえ山の鶯がね、自分だけは季節の到来を知っているぞと、自慢げに鳴くわけさ。

 そのころになってようやく、わが庭の雪もわずかになるから、除けてみるとね、栗の幼木は根元近くからポッキリと折れちまってる。
 あぁご臨終かと、人間なら思うところだがね、地中の根っこは命永らえていると見えて、しぶとく芽を吹いてくれる。やれやれ助かったと安堵して、愉しみにしているとね、ようやく一尺ほどに育ったころ、また雪さ。年々折れて年々芽吹く。今年で七年になる。
 花にも実にも恵まれぬまんま、それでもこの世との縁は切れねえと見えて、枯れ果てもせずに、生涯一尺の身で生きてるってわけさ。

   朝夕に覆かぶさりし目の上の
       辛夷も花の盛り也けり  一茶

 あたしもこの栗の木のようなもんさ。早咲き梅のように先頭切って生れた、長男だったんだがね、おっかさんが死んだときは三歳さ。二度目のおっかさんが来なさったのは八歳。やがて弟が生れた。
 早咲き梅も茨の遅生えに道を狭められ、鬼婆山からの吹きおろしに折られ折られて、晴ればれしい世界に芽を出す日なんぞは一日もないままに、五十七歳の今日を迎えたって次第さ。
 いやなに、これも因縁と思えば、苦しみなんざ慣れっこになったがね。

 取るにも足らぬ一尺まんまの命だったが、途切れずにきたのも、不思議といえば不思議さね。ありがてえと思わなくっちゃ、いけねえかもな。今さら辛夷に恨みもねえし、おのれを撫子と言張るつもりもねえや。
 それだってのによ、おのれの不運や不徳を、なんの悪意もねえ草木になぞらえるのも、バチ当りってもんだろうかねえ。

   なでしこやまゝはゝ木々の日陰花  一茶

一朴抄訳⑧

八王子

JR 八王子駅改札外、なるほど。

 JR 八王子駅に下車したのは、さて何年ぶりだろうか。

 改札口を出るとすぐ、地元および近隣物産店の張り店が眼に着く。多摩地域や近県産の農産物と加工品だ。栽培中無農薬だの、無添加だのが謳われている。新米があり豆があり芋がある。視たことない種類のカボチャがある。三ケ日蜜柑がある。手作り味噌がある。食指が動くものかずかずあれど、今の私には贅沢品だ。眺める愉しみに留める。
 中央線沿線駅構内には、自然食系の出店がしばしば眼に着く。さような商品に眼の効く住民が多いのだろう。私なんぞから見ると「意識高い系」のかたがただ。

 八王子へは、古書店巡りに過去数回来た。伝統の街らしく、品揃えも商いのなさりかたも、堂々とした店がある。私にとっては印象の好ましい街である。
 店舗数としては一日をつぶすほどはないので、ローカル鉄道で町田へ移動する、つまり八王子・町田コースが、一日の行程だった。
 それとは別に、八王子市役所による住民サービスの催しで、お喋りに呼んでいただいたことがあった。百名くらいの会場で、地元に少し所縁ある北村透谷の周辺についてお喋りした。駅前からバスで三十分以上も入った静かな町で、畑を近景にしてあんまりにも近くに山やまの威容が連なるので、息を呑んだものだった。

 何年ぶりかで駅前を眺め渡すと、きれいなビル群がいっそう立派になったように見える。くまざわ書店さんはもとの場所にあるし、喫茶店ルノアールも記憶の場所にある。が、街全体がきれいになっている。


 約束まで一時間の余裕しかないので、駅に近いご当地最有力店さんだけ覗く。目抜き通りのビル一階に店を構えて、二階は有名な麻雀チェーン店だ。プロ雀士もたくさん訪れ、腕試ししたいマニアに人気の店で、麻雀番組のスポンサーもしている。プロ雀士団体戦大会にはチームを編成して出場してもいる。が、今は麻雀の噺は措くとして。

 世に云うウナギの寝床。間口はこぢんまりしていて、奥行きの深い古書店さんだ。間取りだけでなく、品揃えもさようである。なにかが見つかる。意表を突いたものに出くわす。今どきこれがあるかと思い出させるようなものも出る。整理元年処分元年を標榜する身には、どうにも困った書店さんである。
 思うに、市場での仕入れが主ではなかろう。買取りの客筋が非常によろしいのではないだろうか。これがまとまって出てくるのか、というような商品に出くわす。入店してすぐの棚に、杉浦明平の著作がズラリと並んでいた。有名な『記録文学選集』の全巻揃いだけでなく、また文庫や文学全集収録巻でもなく、オリジナル単行本がこれほどまとまって並ぶということは、尋常ではない。どこぞの蔵書家が一括で手放したとしか考えられない。
 うーむ、と唸ってはみたものの、それ一括して引取りましょう、なんぞと云い出す根性は、むろん今の私にはない。

 芥川比呂志『書簡集』。名随筆二巻の裏打ちになる事実が見えるか、また学生時代から交流があったはずの堀田善衞や串田孫一ほかについての逸話は見えないかと思い、買った。アンブローズ・ビアス『生のさなかにも』完訳版。文庫版や選集に拾われていない短篇も、このさい視ておくかという気が起きて、買った。

 さて約束の刻限。改札口へ戻って、古い仲間二人とおち合い、昼飲み。近年は明るいうちに飲みはじめて、早上りが原則となりつつある。
 健康状態の情報交換。友人たちの消息。死んだ者たちの思い出噺。互いに無事に過せて、旅行が可能であれば、次はどこにするかの相談。
 街が人工色に彩られはじめた時刻には散開。夕刻の上り電車は腰掛けられる。居眠りして新宿を乗越し、四谷下車。地下鉄で帰るか、いっそ駅を出てここらの懐かしき店へでもと一瞬考えるも、思い留まって新宿まで戻る。下り電車は混んでいる。新宿でも駅を出ようかと、かなり真剣に迷う。どの店でも「おや、生きてたかい」と挨拶されそうだ。

 

 つまりはわが町の、いつもの席だ。帰宅して台所をする気も起きない。今日はまだ玉子を口にしていなかった。一日一個が原則。
 近年の暮しにあっては例外と申せるほど、今日は飲んだ。明朝は体重計の目盛りが跳ね上っていることだろう。

初詣り


 遅まきながら、菩提寺さまへ新年のご挨拶。毎年承知のうえで、遅らせている。

 旧年歳末は、かなり押詰ってから一年のお礼に参上した。有力檀家衆の尻尾に、という想いだ。新年は松の内をあえて避ける。いち早く新年のご挨拶に出向かれるだろう有力檀家衆が、すべて済んでからとの気分である。
 昭和二十九年にこの町へ辿りついて、七十年に近いお付合いだけれども、先祖代々の檀家衆も多いなか、わが家など新参者に過ぎない。郷里から分墓を移して、正式檀徒の末席とさせていただいてはいるが、先頭切ってなどという振舞いは、慎むべきだ。

 母の命日は、平成十九年二月六日。来月は十七回忌である。
 例により、親戚に連絡を回しての法事などは催さない。遠方からお出掛けいただくのはご迷惑だろうし、関東在住の親戚にしたところで、それぞれご多用のおりから、母を偲ぶ催しが、なにがしかのお役に立つとも思えない。書状にてのお報せだけで済ませることにする。

 かと申して、法事をとり行わぬわけではない。参列者が私一人だというまでのこと。当日は本堂へも墓所へも参る。塔婆をお下げ渡しいただく。
 塔婆は二本。母の「十七回忌」と父の「追善」である。父の忌日には、逆となる。つねに二本だ。
 お塔婆料と、十分なことはできぬ身分ではあるがお布施とをお納めして、万端お願い申しあげる。例年とは少し異なる、本年の拙宅行事についての用事が、ひとつ済んだ。

 例月のごとく、本堂、大師堂、ミニ四国巡礼回遊路と、参拝を済ませる。
 春近し、絶好の日和だ。しだれ梅も白木蓮もつぼみが肉眼で確かめられる。母の法事の頃には、花が観られるかもしれない。花壇のように牡丹が集中して植え込まれてある一画では、苗の丈が伐り揃えられている。近くいっせいに芽吹くことだろう。
 灌木類の冬囲いは、一部取りはずされた。もしも寒がぶり返したりして、少々の雪に見舞われたりしてさえも障りを受けるような、敏感な奴や弱い奴の囲いだけが残っている。
 はてここにはなにが植わっていたんだったか。観慣れた場所なのに、思い出せない。