一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

餡こ

 和菓子って、つまりは餡こを味わうものだ。餡こだけでは食べにくいから、皮を巻いて蒸かせば饅頭となり、餅で包んで粉をまぶせば大福となる。水溶きした粉を薄く塗って焼けば金鍔となり、濃い水溶き粉をたっぷり使えば今川焼・鯛焼となる。もち米粉を練って薄く焼いた皮に挟めば最中だし、パンケーキに挟めば銅鑼焼だ。
 なにを云うか、皮の味加減・焼き具合こそが命だ、とおっしゃる食通も、むろんいらっしゃるけれども。
 ファミマには、100円(税抜き、以下同)の銅鑼焼と少し高価な銅鑼焼とがある。けれどビッグAには、ひと缶165グラム入り128円のゆで小豆缶がある。食後のお茶か珈琲のときに、二匙三匙すくって舐めると、4~5回はもつ。おおいに満足だ。
 ときに金鍔だが、つまりは榮太樓型か本髙砂屋型かの二択となるのかしらん。どうでもいいことだけれども。
 また徳田秋聲は、皮に包まってるからこその菓子だろうと云い、正宗白鳥は、つまりは餡こじゃねえかと云ったような気がする。これもどうでもいいことだけれども。