一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

視詰める

 鬼平でも剣客商売でも、視線を切結ぶだの眼の奥を覗くだのと、互いに視詰め合う場面または台詞が、しばしば出てくる。しかし日常の暮しで、他人をそれほどしげしげと視詰める機会が、あるものだろうか。
 想像中では、また頭のなかでは、たしかに意識し考えて、つまり視詰めていると云えぬこともないけれど、さて具体的な眼の動きとしては、どうなのだろうか。気おくれして、または不躾にならぬかと憚って、眼を逸らすとか、視ぬふりをする場合が、ほとんどではあるまいか。

 川端康成はその点、容赦なく視詰めた人だったらしい。とりたてて観察する気も、訝しむ気もない場合ですら、相手をじっと凝視したらしい。しかも無言で。
 相手はたまったものではない。来客も担当編集者も、たちどころにいたたまれなくなり、そうそうに暇乞いを願い出る。と、「まだいいじゃありませんか」と笑顔で引留められるそうな。さぞや辛かったことだろう。
 川端が電車の座席に腰掛けていると、向い側の席三人分くらいは、空席になったそうだ。

 ときに小説家志望の若者たちに、綴りかた技術など後回しでいいから、なによりもまず人間観察をと説く商売に、つい先だってまで就いていたわけだが、毎年こんな苦情に接したものだ。
「観察していると、眼が合っちゃうんですよ。やばいっすよぉ」
 そこで、相手を感じながら、相手からは不審がられぬ視線の技術を伝授。我がゼミのカリキュラムのひとつだった。極意は簡単で、相手の腕時計を視詰めていればいい。それ以上視線を逸らせると、かえってわさとらしく見えて怪しまれる。

 その昔、興信所のベテラン社員である、尾行のプロから教わった。