一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

一縷の

 ごきぶりホイホイに、やもりが掛ってしまったことがある。物干し脇の洗濯場でのことだ。そうとう抵抗したと見えて、右手足と、左は肘どころか横腹から尻尾の付根まで、べったりと貼りついている。眼はまだ活きていて、かすかに呼吸もしている。

 湯でもかけてみようか。根拠もなしの想像だが、粘着剤が溶けるとは思えない。むしろこいつに障りそうだ。思いつくのはアルコールだのベンジンだの。いずれも拙宅に常備などない。マツキヨへ走るか。しかし粘着剤よりも先に、こいつがやられてしまいそうな気もする。自分の無知を、世間知の乏しさを呪った。我に返れば俺は今、この洗濯を急いでいるのだ。
 汝が性の拙きを泣け、とでも云うしかない状況か。

 イチかバチか、野蛮な外科処置しかない。特定箇所に負担が集中せぬよう五本指でやつの躰全体を包むようにして、エイヤッと引剝がした。キュウッと短く鳴いた。やもりの鳴声を、生れて初めて聴いた。いや、鳴声ではなく、生体組織が物理的にたてた音だったのだろうか。
 横腹が少々破れて、肉が見えた。臓物までは見えない。呼吸もしている。真黒な粘着剤の表面に、横腹の皮と尻尾の先端が残っていた。
 物干しの隅に置きっぱなしになっていた鉢植えのサツキの根かたに置いた。あとはこいつの再生能力に期待するしかない。洗濯に戻った。

 翌日視たら、姿はなかった。死骸もない。生きられたのだろうか。いや、しばらくは動けなかったろうから、十中八九カラスの餌になってしまったのだろう。
 一縷の望みと思うのは、こちらの感傷である。