一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

ものぐさ

 FaceBooktwitterへの加入登録日は、二〇一一年三月十一日である。東日本大震災の夜だ。テレビを点けっぱなしにしながら、パソコンに向っていたが、情報不足がどうにももどかしく、思い余って登録したのだった。
 それまではMixiという、今ではあまり同志をお見掛けしないSNSだけを使っていた。

 そう思い出したところで、気づいた。その頃、まだテレビを観ていたのだ。いつからテレビを点けなくなったか、はっきりした記憶がなかったのだが、その日まではまだ、テレビを観ていたのだなぁと、今判明した。私一個の、重要証拠である。が、それは措くとして。

 台所では、食器棚の引戸が開け放しになっていたため、多くの皿小鉢が飛出し、割れて床に散乱していた。書庫兼物置と化していた、かつて書斎だった部屋の物品狼藉のさまは凄まじかった。だが幸いにして、書棚や家具が倒れるというような大災害は拙宅のどこにもなく、手間さえかければ独りで片づけられそうな被害に留まっていた。
 ただ自分のものぐさ気質をよく知る私は、こりゃ長くなるかもしれんぞ、とは思った。その予感は不幸にも的中したが、今はそれも措くとして。

 新加入したSNSはじつに便利で、ありがたかった。それが自分に怖ろしい病理症状をもたらすかもしれぬとの危惧の念は、いささかも抱かなかった。
 友人知友と気軽に連絡を交換し、その発言に賛同したりコメントを送信したりして、悦に入っていた。今思えば、よくもまあ何のためらいもなくと、恥入るほどだった。

 問題は「いいね!」クリックである。いい噺だ、感心するご意見だ、貴重な情報だ、などは文字どおり「いいね!」だ。しかし閲覧連絡・開封報告にも同じクリックをしている自分に気づいた。これでいいのだろうか。
 気心知れた友人や面識ある知人に対しては、それでもよかろう。問題は思想的な、また政治むきのご意見が含まれたご発言に接した場合だ。「お説にも一理ある、あなたの立場であればそう考えるのはごもっともだ」と「私も志は同じだ、共に行動しよう」とでは、同じ反応でよろしいはずかない。

 私ごときがいかに逡巡しようが、世相にも天下にも影響ないが、さて国民の多くがこの反応方式に馴れっこになっていったとき、危険性はないのだろうか。
 「たしかに受取った」が、いつの間にか「君の主張は理解した」になり、「同意した」に格上げされ、「賛成だ」にカウントされてしまいはしないのだろうか。ひいては、ある意見に対して、賛成か反対か、是々非々を許さぬ二極化に束ねられて総括されてしまうことは、ないのだろうか。
 この傾向をどう活用するか、私などにその知恵があるはずもないが、悪知恵の働く者にとっては、活用の余地おおいにありそうな気もする。

 ものぐさな野良犬は、いかなるかたちであれ、束ねられるのは嫌なのである。