一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

つづける

 夜どおし風が吹いた朝、レジ袋に入ったゴミが三つ四つと、拙宅前に散らかっていることがある。回収日前夜、お向うのマンションのゴミ置場から転がって来たらしい。弁当の殻や、発砲スチロール・トレー、潰してもいないビールのアルミ缶などが入って、いかにも軽いゴミだ。
 四十五リットルか、せいぜい三十リットル袋にまとめてくだされば、転がることもあるまいに。またゴミに密度があれば、こうまで散乱するまいに。ソースやマヨネーズの香が、プーンと漂うものもある。
 当事者を詮索する気はない。いつもファミリーマートでスポーツ紙を買っている、私と同齢くらいの老人が二階に、よく深夜にベランダのガラス戸を開け放したまま、私に理解できぬ外国語で大喧嘩しているカップルが三階に、お住いなのは知っている。道で擦違えば会釈くらいはするが、話したことはない。その他の世帯は、どういうかたがお住いかも存じあげない。

 ――お宅のマンションが建つ前はね、島田さんのお住いで、屋根より高いクスノキと屋根ほどの背丈のモチノキに囲まれた、平屋の日本家屋でした。亡くなられたご先代は国鉄にお務めでしたよ。ご長男が国会議員の秘書さんだったんですが、お若くして亡くなりましてね。ご次男が継がれました。
 ご次男は埼玉のほうへ引込まれて、今でも名義はそちらのオーナーですってね。小学生時分、私とは原っぱで草野球をした仲です。
 それ以前ですか。お宅の裏手の権藤さんのマンションから木の葉薬局のあたりまでずうっと、未使用地ってんですかね、草ぼうぼうの空地でしたよ。いちおう棒っ杭が立って、有刺鉄線が張回してはありましたが、常時どこかしら壊れてましてね、キチキチバッタを追いかけたりいたしましたよ。
 戦後しばらくは麦畑だったと聴きましたが、私は視ていません。私、昭和二十九年からですから。

 ファミリーマートの前のサンロードね。川だったんです。東京オリンピックに向けて、あつ、前のですよ、暗渠にしたんです。それまでは台風どきに水が上ったりしたことも、ありましたねえ。水上りのときは、長靴で歩くと変なものが入ってきてかえって危ないというので、下駄で歩いたものですよ。
 川ですか。そのころは泥川でしたね。十年くらい年長のかたは、幼いころ鮒を獲ったとおっしゃってましたが、私が来たころは、泥鰌もいませんでしたねえ。

 そこの四辻、えゝファミリーマートの角。さほど大きくもない十字路ですのに、信号が設置されておりましょう。不思議とは、思われませんか。じつはね、たびたび交通事故が起きたんです。今居酒屋になっている角に、小さな荒物屋さんがありましてね。箒・塵取りだのタワシ・餅網だの、こまごま何でも売っている店で、小柄なお婆ちゃんが一人で店番してました。そこへ何度も自動車が突込みましてね。そのたびに店がめちゃくちゃになりました。で、信号機が付いたんです。

 なぜ事故が多発したかと申しますと、ほら、こちらが山手通りへ抜ける道路地図上でのメイン通り。もともとを知ってる運転手さんは、当然のように走り抜けようとします。ところが川を暗渠にして道幅広くなったサンロードは、人通りも自転車も急激に増えまして、自動車でさえもが、こちらがメイン通りだろうと、安心して十字路に進入してくるというわけです。
 こんな小さな四辻に信号機など無駄だと、おっしゃるかたが多いとは聴きおよんでおります。車も来ないのに赤信号を守るのは日本人だけだなどと、嗤われていることも、承知しております。ですが、さような経緯がございますのです。

 ほら、池袋の立教大学の、今は新校舎や体育館が建っているあたりが、当時広いグラウンドでしてね。六大学野球のスターでした長嶋選手や杉浦投手が練習しているというので、我ら野球少年たちは自転車で観に行った、そんな時代のことでございますよ。

 と語ってみたところで、軽いゴミは転がって来つづけるんだろうなあ。