一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

足を

 コインランドリーの洗濯機。水洗いなら三百円、湯洗いなら四百円。つねにはないことだが、四百円投じてみた。気紛れの贅沢である。その代り、入口脇の自販機で百円珈琲を買わぬことにして、スーパーで仕入れた六十円の缶珈琲を、ポケットに捻じ込んで家を出て来ている。
 湯洗いのご利益は、あるのだろうか。まだ着てみないから、判らない。

 洗濯機が回っているあいだに買物。これもつねのこと。冷凍餃子と梅干はサミットストアで買うから、後回し。今日はビッグエーのぶんだけにする。茹で小豆缶、納豆小分け三パック組、六ピーチーズ、濃縮カルピス、いずれも常備品の補充だから迷う必要もない。ふと眼についたのはカボチャである。
 季節を問わず、カボチャを炊く。甘めに味付けして、だし汁が飛ぶまで炊きあげる。惣菜というより、スウィーツ感覚。食後に麦茶を飲みながら、頬張ったりする。

 もっとも手軽にして素朴な炊きかた。これは天龍寺管長であられた関牧翁さんから教わった。むろんテレビ番組を通じてである。
 掃除も炊事も禅の重要な修行たることは、広く知られている。そこへもってきて牧翁管長のスマートな体躯と洒脱なお人柄。ときおり料理番組にゲスト出演なさったりしたものだった。当り鉢で胡麻を当って、加減を看るべく薬指でちょいペロリ。テイストデリシアスなんて、おっしゃってた。まことに様子が好かった。
 で、ある回の放送で、カボチャの水加減と炊きかたのコツを伝授された。これだったら俺にもできそうだと思って、やってみたら、思いのほか美味で、以来若干の思いつきを加えはしたものの、基本はその流儀で通してきた。

 「俺のカボチャは、天龍寺仕込みだからね」と、かつては人を煙にまくこともできた。四十代のころは、またアイツのビッグマウスがと、嗤っていただけた。ところが近年、そうもゆかぬ場合が出てきた。
 「へぇ~、そういう修行もなさったので」などと真面目に返されて、今度はこちらが面食らう。嘘、嘘、嘘ですよと、あとの説明が面倒臭いことになってしまったりする。
 齢老いることの功徳と云おうか、面倒と云おうか。

 さてさて今日のカボチャの噺。ここ一番という献立を企てるときは、何十年来の付合いになる商店街の八百屋で国内畑のものを買う。だが自分一人で食べる普段カボチャは、少しでも安くてカットの大きいものを選ぶ。で、スーパーのカボチャが、ふと眼についたわけだ。なぜなら先週まではニュージーランド産だったのが、今日はメキシコ産。季節の変り目だ。
 八百屋の店頭は季節によって品揃えも値段も変るが、量販店は仕入れパイプをシフトさせることで安定供給を確保しようとする。あとは選ぶこちらの責任である。
 まず種子を視る。種子が充実して密度高ければ、畑での成熟および収穫時期が良好だった証拠だ。次にヘタの切り口の大きさ。太い蔓から切り離されたもののほうが、概してよろしい。そしてなにより大切なのは持ち重り。同一品種、同一量、同一値段でも、いくつか持ってみれば違いが判る。むろんカチッとした手応えで密度を感じさせるものが、美味いのである。
 今後のことは判らないが、今日だけの感想。今年のメキシコ産は好い。ニュージーランド産より上出来だ。あとは炊いて、食べてみなければ判らないが。

 我に返れば、まだ洗濯機が回っている。心づもりでは、買物を了えて、洗濯機も止って、乾燥機を回すあいだ、缶珈琲を飲みながら読返した『ガリバー旅行記』について心憶えしておきたかったのだが、カボチャの蔓に足を捕られた。