一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

ストン

 最晩年の父は、認知症による要介護者だったが、同時に、膀胱にがんも抱えていた。しかし高齢になってからの発症で、がん細胞の転移力が弱かったものか、他臓器への転移は、最期まで確認されなかった。それもあって、発見が遅れたのでもあった。

 じつを申せば私は、怪しいなと密かに思ってはいた。尿に、通常の黄色味ではない、もう少し灰褐色っぽい色が、混じることがあったからだ。それを主治医に、報告もした。しかしそのころは主治医も私も、認知症対策に懸命で、着眼の優先順位としては、後回しとなっていたのだった。
 一年ほど経って、尿の着色も頻繁になってきたので、もう一度主治医の耳に入れた。
 「なんで黙ってたのよお」
 「いえ先生、申しましたけど」
 「えゝっ、いつよお」
 長年の通院や入退院で何枚綴りにもなったカルテの束をめくり返すと、一年前の検査結果と私からの聴取り所見欄に、「血尿あり」との記入が残っていた。私には判断できようはずもなかったが、着色はやはり血尿だったのだ。
 しかし痛みを伴うわけでもなく、幸いにして、排尿の不便もなかった。「要介護4」の重度認知症患者の日常生活に、変化は生じなかった。認知症もがんも、なしうる治療はすべて施したので、症状・局面に変化がないかぎり、入院の必要はないし、通院も定期検査のみと、主治医からは申しわたされた。

 さてここからが私の愚かだったところだ。
 当時私は週に二日、非常勤の務めに出ていた。そういう日の朝は、父の下半身始末と朝食介助を済ませると、車椅子を押して拙宅前に待機。介護施設の送迎バスを待った。週二回の預かりと入浴を、デイサービスにすがっていたのだ。ほゞ定刻に回ってきてくださる介護職員さんに父を預けてから、ベッドメイクと夕食の用意。膳を整えて布巾を被せてから、出勤していた。
 夕方の父お迎え時刻までに帰宅することなどできないので、バスで帰されてくる父の引取りと、着替えと、夕食介助と、ベッドへの寝かせつけまでを、ヘルパーさんにお願いしていた。私が帰宅するころには、ヘルパーさんはとっくに帰ってしまっていたが、父はぐっすり眠り込んでいて、問題はなかった。

 ちなみに、「要介護2」のころまでは、油断禁物だった。夜間徘徊もあったし、老人せん妄というのか、夢からか妄想からか奇声を発したり衝動的な身動きをしたものだったが、「要介護3」ともなると、それらは静まった。世話は格段に重労働となるが、眼を離せない状況からは解放される。
 介護職員さんとヘルパーさんの熟練の腕前に支えていただいて、私はただ重労働に耐えていさえすればよかった。

 ところがである。自覚症状もなく暮しかたにも変化ないのだから、黙っておけばよかったものを、馬鹿正直にも私は、父の膀胱にがんがあることを、介護施設に報告してしまったのだった。
 血尿による着色は常時あるわけではない。ほとんどの日は通常の尿で、たまに、それもかすかに色が着くに過ぎない。

 とある学会が地方都市で開催され、古い友人から、お前も出て来て一席務めろとの誘いを受けた。私としても、今さらお役に立てることなどあるまいが、会ってみたい人や聴いてみたい話題が満載で、たしかに出席したい学会だった。が、出席するとなれば、泊りがけとならざるをえない。
 介護施設ショートステイ(短期宿泊)のサービスを、初めて申し込んでみた。介護の持ち点にはまだ十分余裕があったし、このさい使わせてもらおうと考えたのだった。
 手続きは済んだ。やれやれ、それにしても学会なんて、いったい十何年ぶりだろうか、などと考えていた数日後、施設から電話があった。手続き撤回と。
 「血尿の降りる患者は、デイサービスは利用できても、宿泊はさせられない」とのことだった。

 少々じたばた足掻いてみたが、埒が開かなかった。病院からは、緊急もしくは付き切り治療を必要としない患者を、入院させるわけにはゆかないと云われる。介護施設からは、血尿患者は病気なのだから、宿泊させられないと云われる。
 医療と福祉の裂目にストンと落ちてしまうと、身動きが取れなくなってしまうのだ。

 一昨年、父の十三回忌を済ませた。だのになぜ今、そんな古いことを想い出したかといえば、昨日書いた放置自転車の件がきっかけだ。
 拙宅門柱の南側に寄りかかっていたか、西側に寄りかかっていたかで、区役所か敷地地主か、処理責任者が変る。そのさい警察は、事件性のない車輌については、一切の判断をしない。その後のトラブルにも対応する気はない。
 行政の裂目にストンと落ちてしまうと、身動きが取れなくなってしまう。