一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

 一九五六(昭和三十一)年、曽根史郎が歌って大ヒットした『若いお巡りさん』。紅白歌合戦にも出場した。作詞は井田誠一。

 ♪もしもし ベンチでささやくお二人さん 早くお帰り夜が更ける
 野暮な説教するんじゃないが ここらは近ごろ物騒だ
 はなしの続きは明日にしたら そろそろ広場の灯も消える

 浅草か深川か向島あたりの公園だろうか。集団就職列車で上京し、下町の町工場に勤めていた若者カップルだろうか。ラブホテルなんてものは、影も形もなかった時代だ。
 経済企画庁発表の経済白書に「もはや戦後ではない」との名言が飛出して、流行語になった年だ。復興東京は極端な労働力不足。東北地方から、まとめ買いでもするようにして、若き労働力を搔き集めていた。

 集団就職列車は昭和二十六年から走ったが、この年には急行津軽が走り始めた。上野発、奥羽線回りだから秋田も通って、青森行き。座席車のほかに一等寝台車・二等寝台車もついていた。何年か勤め上げて自力で帰郷できるまでになった就職生にとって、一等寝台で帰ることは故郷に錦を飾ることを意味した。急行津軽は誰云うとなく、「出世列車」と称ばれるようになっていった。
 ある調査によれば、集団就職生が始めに勤めた職業で定年した割合は、驚くほど少ない。ほとんどの人が転職、または離職帰郷を、経験している。

 ある印刷会社の取締役工場長から伺った噺。
 ――社名を染抜いた横断幕を広げて、改札こっちで待ってるんですわ。いろんな会社や工場の者がおりました。列車が着くと、まあ出てくるわ出てくるわ、つい数日前まで中学生だったのや高校生だったのが、制帽かぶって風呂敷包み持ちましてね。
 ウチの幕を見つけて寄ってくるのがポツリポツリ。顔に視憶えあります。半年前に、私が東北一円出張して面接した子たちですわ。私ですか。当時は組版班長でしたかね、今で云うと主任ってとこですか。

 ――上野駅前の食堂へ、まず連れてゆくんですわ。いやいや長旅ご苦労さんってわけでね。カツ丼食わすんですわ。みんな眼を白黒させましてね。東京にはこんな美味いもんがあるのかって。なぁに、こんなもんいつでも食えるようになる。年中インクまみれ油まみれの仕事ではあるが、金輪際この世からなくならねえ仕事だ。一丁前になれば生涯食いっぱぐれねえ。俺がみっちり仕込んでやるから、いゝか、辛抱しろよってね。

 ――そいつら、今じゃ女房も子もある、ウチの職長・班長・ベテラン活版職人たちですがね。私はね、今そいつらの首を切ってるんですわ。

 時代は工場長の予想以上の速度で進歩した。活版印刷は写植製版によるオフセット印刷としばらくは併走したが、組版ばかりか編集指定から校正まで一気にできる電算写植の登場となって、勝負あった。
 製版部には、キーボードと画面が整列し、若い女子オペレーターたちがズラリと並んだ。組版場から馬(活字棚)が消えた。機械場から油の匂いが消えた。
 世の中にはまだ、ほんの少量だが、活版印刷物の需要がある。が、その設備を維持できるのは、大印刷会社だけだ。はっきり云えば、大日本・凸版・共同だけだ。大会社の営業担当はここぞとばかり攻勢をかけてくる。「活版ですか。弊社ならできますとも。その代り、貴社のその他の印刷物も、全部弊社にください」

 工場長は自分が仕込んだ腕利きの職人たちを、かつてカツ丼をご馳走しながら一生面倒看ると約束した弟子たちを、なんとかして、まだ活版部を持っている大会社へ再就職させようと、人事交渉に必死の毎日だった。が、初老職工たちの再就職は、思うに任せぬようだった。

 そんな噺が、さてどれくらい前になるんだか。今となっては、印刷所の馬を視たことある人も少なかろう。急行津軽も、とっくになくなった。上野駅前の聚楽売店で、雷おこしや、東京タワーのキーホルダーや、二重橋の刺繍ペナントを買う人は、今もいらっしゃるのかしらん。