一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

 ♪もしもし 家出をしたのか 娘さん 君の気持もわかるけど
  郷里(くに)じゃ父さん母さんたちが 死ぬほど心配してるだろ
  送ってあげよう 任せておきな 今なら間に合う終列車
  (『若いお巡りさん』二番、作詞:井田誠一)

 彼女の郷里は新潟県柏崎。郷土の誇りは良寛さま、有名人は田中角栄、ただ今現在は柏崎刈羽原発、その柏崎だ。まず上越線で長岡へ。キックバックするように信越本線の上りに、乗換える。
 長岡のひとつ手前の駅は宮内といって、急行などは停らない。が、宮内・長岡間は上越線信越本線も走る区間だ。つまり鈍行だけを乗り継ぐのであれば、長岡まで行かずとも、ひと駅手前の宮内で乗換えることが可能だ。
 東京で例えれば、お茶の水からジェイアールで渋谷へ行く場合に、中央線快速で新宿乗換えすることもできようが、総武線各駅に乗って、ひと駅手前の代々木で乗換える、というようなものだ。

 急行も停らぬ宮内がほんの小さな駅かというと、そうでもない。乗降客こそ少ないが、古びたホームが、驚くほど長く延びている。ある時期までは、長い長い貨物列車が、停車したのだろう。大駅長岡に停車させるのは、客車運行の妨げになったのかもしれない。地域の主要駅に隣接する、物流駅の役割を、果していたにちがいない。
 現在では、鈍行の客車が、ホームの前方半分か後方半分かに停車するのがせいぜいだ。

 敗戦後ほどなく、まだ視ぬ東京へ初めて向うとき、彼女は宮内駅ホームで、普通列車の上野行き切符を、握りしめていたのだろうか。長岡まで行けば、ひと駅間往復ぶんの運賃を、余計に払わなければならない。ズルすれば、検札に引っかかっても申し開きができないとでも、考えていたのだろうか。

 後年彼女は、用事で帰郷するさい、小学生くらいの息子の手を引いて、鈍行で帰った。暮し向きは、豊かではなかった。宮内のホームのベンチで、信越本線を待った。取残されつつある小駅での、乗継連絡は極端に悪い。朝のうちに家を出たのに、陽が傾いてくる。ホームに人影はない。
 「いっそのこと、長岡まで行けばよかったね、母さん」
 彼女は応えず、ホームの遠くのほうを眺めていた。

 さらに後年、上野発金沢行きという、長岡で勝手にスイッチバックしてくれる特急が走った時代があった。
 「すごいんだよぉ、長岡からねえ、ひとりでに反対に走り出すんだから。乗換えなしだよ。便利になったねえ」
 少女がはしゃぐような笑顔で、家族に帰郷の報告をした。

 親戚縁者が高齢化し、少なくなってゆき、帰郷の用向きもめったになくなった。
 上越新幹線には一度も乗らぬまま、彼女は生涯を了えた。母である。