一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

昨日のこと

 NHKラジオ深夜便」のエンディングが好きだ。どなたが担当の日も、どれもいゝ。贔屓はない。ウソ、須磨佳津江さんか渡邊あゆみさんだったら、なおいゝか。

 NHKの女性アナウンサーとして、桜井洋子さん、頼近美津子さんらがピッチピチに台頭してきて、ちょっとした美人女子アナ・ブームの観を呈した時代があった。溌剌として機転が利き、ニュースもバラエティーもいけるタレント性も豊かで、今ならアイドル女子アナと称ばれるに違いない活躍だった。
 そんな時にも私は、少し先輩の須磨佳津江さんに惹かれていた。淑やかでやゝおっとりして、夢から抜け出てきたお姫様のようなアナウンサーだった。
 たしか私と同齢でいらっしゃるはずだが、ラジオから伝わる語り口調は、今もお姫様だ。

 渡邊あゆみさんは、この人ハーフかな? と思わせる印象的な面立ちのアナウンサーで、眼ぢからが強く、低めの声色がこちらの耳を落着かせてくれる。
 ある時、食堂のテレビに渡邊さんが映っていた。
 「あれぇ、この人、黒田あゆみさんじゃねえのかなぁ。結婚したのかなぁ」
 焼魚定食の箸を止めて、思わず呟き、画面に視入ってしまった。
 「そんなことばっか詳しくて、何なのよっ。んもォ、時間ないんだからねっ」
 向いあって刺身定食を食べていた彼女は、それから二日半くらい、オカンムリだった。この春、コロナ禍につき家族葬を済ませましたと、ご子息からハガキが来ていたから、もう書いてもかまわないだろう。

 だが、ここで前言撤回。「ラジオ深夜便」のエンディングは、やはり男性アナウンサーの声が、しっくり来るな。
 ――外はすっかり明るくなってまいりました。昨夜十一時五分からただ今までのお相手は○○でございました。本日の「ラジオ深夜便」は△△アンカー、(予定プログラム)などをお送りする予定です。それでは、今日一日、皆さまに一つでも、佳いことがありますように。時報は間もなく、五時をお報せいたします。

 やゝ長い間。好みを云わせてもらえば、もっと長くてもかまわない。が、これ以上長いと、放送事故扱いになってしまうのだろうか。
 時報。「おはようございますっ! 〇月〇日、朝五時ですっ」
 数秒前までとは打って変った、明るく弾む声。ラジオはここで、日付変更線をまたぐのである。

 時計を少し巻戻して。「ラジオ深夜便」では、「どうぞ最後までお聴きください」とはけっして云わない。「そうぞお休みください。起きておいでのかただけ、どうぞ」である。四時ともなれば、「これからお休みのかた、お休みなさいませ。今お目覚めのかた、おはようございます」となる。
 〆切に合せて夜鍋仕事に根を詰めたリスナーもあろう。早起きして身繕いを急ぎ、市場へ仕入れに出かけねばならぬリスナーもあろう。豆腐屋さんやパン屋さんは、忙しい盛りかもしれない。病床にあって、眠りたくても眠れぬリスナーもあろう。台所の隅で、肉じゃがの火加減を看ながら、紹興酒をちびりちびりやっている、こんな老人もある。
 明るいうちは、元気ある者・力ある者・希望ある者たちの時間空間だ。だが深夜は身分・資格を問わぬ、みんなの時間空間だ。このことは、私自身が半生かけて確かめた。

 あゝ、すでに今日なんだ。あれはもう、昨日のことになったんだ。
 一日の始めにエンディングがあり、一日の最後にオープニングがあるこの番組が、私は好きだ。