一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

老耄

 常であればまだ寝ている時間帯に、台所をしていたら、聴き覚えのある声がラジオから流れてきた。安住紳一郎さんの声だ。へ~え。古田新太さんをゲストに、腹を抱えるトークだったが、それはいいとして。
 舞台公演中の古田さんが、んじゃ、とばかりに退席してエンディング前の〆のトークで、異なことを耳にした。

 一時間弱とは何分くらいのことかという、語感についてだ。安住さんとお相手の女性アナウンサーはそれぞれ、五十七分くらい、私は四十五分でも、そりゃないよせいぜい五十分以上と、それぞれの語感を披露し合った。それはよろしいだろう。個々の語感・体感に属する、云うなれば主観的な受取りの習慣に過ぎない。

 ところがこの表現が、お若いかたに誤解されてしまう場合があるという。一時間とチョット、つまり六十三分なり七十分なりのことと、受取られてしまう場合があるという。では、一時間強はどうなるのかと、お二人の間でも指摘されはしたが、それ以上は深掘りされずに、やゝあきれた笑い話として済まされてしまった。
 こういう誤解されかたが、世にあることを知らなかった私は、愕然としてしまった。これは世代によって語感が異なるとか、言葉はつねに活きているとかの言草で、片づけられる問題だろうか。
 もとより婉曲表現であり、むしろ曖昧であることを意図してさえいる表現ではある。が、一時間弱が六十三分という意味は、私の日本語感覚のどこを突っついても、出てこない。

 似た表現に、小一時間、小半日、小一日がある。言外に「たっぷり」「丸々」などを対照概念とする、婉曲表現だ。たっぷり一時間というほどではないけれども、まあ一時間に近い時間。これが小一時間である。きっかり半日と云っては大袈裟だけれども、まあ半日近くを要する時間。これが小半日である。丸々一日ほどではないが、かといってその後にもう仕事できるかといえば、そうもいかぬ時間。これが小一日である。
 しかもこの場合の半日・一日は、十二時間でも二十四時間でもない。仕事しているあいだとか、眼醒めて活動しているあいだといった意味合いが強い。つまりは、数値化できない曖昧さを帯びていて、いゝ加減であり、時と場合によっての好い加減なのだ。

 当然ながら、学術論文には適さないし、契約書類や企画書類や決算書類にも適さない。逆に、日常会話の中で、相手の気持ちを思いやりながら、事実よりもニュアンスを伝えようとするさいに、絶妙な効果を発揮するわけだ。むやみに多用すれば、意図が不明確となるから、用いる者の日本語力が必要になる。ともすると必要なのは日本語力ではなく、総合的な人間力かもしれない。

 さて「一時間弱」だけれども、これが一時間とチョット、六十三分か七十分と感じられるというのは、言葉がつねに活きて変移するというような問題ではなくて、たんに日本語力の未熟、人間力の非力といった問題ではないのだろうか。
 畏れながら、安住紳一郎さんには、それは間違った日本語であると、きっぱり断定していただきたかったと残念に思うが、これは私の老耄だろうか。