一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

動機

 拙宅菩提寺の蓮華山金剛院さまは、御府内八十八か所霊場巡礼の第七十六番札所となっている。
 檀家末席に加えていただいたのは、平成元年のことだった。父の郷里新潟の菩提寺さまと金剛院さまとが同じ宗派で、しかもなんという奇遇か、菩提寺ご住職とその頃金剛院さまご住職であられたご先代とが、総本山長谷寺でのご修行時代の先輩後輩で、旧知の間柄だった。

 父も東京に五十年、この地に移り来て三十五年。もはや新潟へ戻ることは生涯あるまいと考え、金剛院さまへ願い出たのだった。通常ならばいろいろ面倒な手続きやら仕来りやらがあるのだろうが、なにせ旧菩提寺さまと金剛院さまとはツーカーだから、噺はスムーズにまとまった。
 本堂裏の墓地に、ひと区画の墓所地をお分けいただいた。おかげさまで以来今日まで、罰当りなことに、買物や散歩の道すがら、ジーパンにサンダル履きでも、墓参りができる。

 とはいえ墓所に墓石は立ったものの、中に仏はいない。旧菩提寺墓所から湯飲み一杯分ほどの土をいただいて来て、こちらの墓所に納め、墓誌には先祖累代之霊位と、一行彫り込んだ。この状態で、およそ二十年、我家は墓守りした。
 そのおかげで、墓石建立後十九年目に母が、二十一年目に父が他界したが、なんの心配もなく、骨壺を納めることができた。上京第一世代の高齢化にともなって、ご墓所の手当てにご苦労なさるかたがたの噺を耳にするたびに、我家はなんと幸運だったことかと、しみじみ思う。

 今年末は、父の十三回忌だ。例によって私独りで行う。墓石の裏に仕切られた塔婆立てには、命日や施餓鬼のたびに立ててきた塔婆が収まりきらなくなるので、古いものから順に本堂へお返ししながら、新しいものを立てるのだが、すべて私の名の塔婆だ。
 最低限、十三回忌をなんとか了えることができればと考えてきたから、なんだか一区切り付けられそうな気分になっている。こちらも完全に定年退職したことだし、次なる目処を考えるべきときかとも思う。

 夢見たこともあった巡礼旅にでも出るか。しかし今の体力を考えると、四国は遠い。いや、それはワガママと云うものか。
 ユーチューブには、四国巡礼を成就したかたがたの動画が、いくつも挙っている。道みち受けた心温まるご接待を語る人が多い。風光明媚を語る人も、古刹の風情を語る人も多い。
 外国人さんも多い。小さな道しるべに感動したり、ローマ字で般若心経を読み納めたりした人たちだ。なかには、イタリーでもスペインでも巡礼を成就してきて、四国は二度目だなどという、とんでもない猛者もある。これから高野山へ向うのだと、誇らしげに語る。みんなみんな、じつに晴ればれした顔つきで、インタビューに応えている。

 思い出した。伯父の葬儀に参列したとき、精進落しの席が近かった新潟のご住職が、おっしゃってた。
 ――四国の一番札所へまいりますとね、これから巡礼に発つ人と巡って戻ってきた人とね、私らはひと眼で区別できますよ。お顔がね、まったく違うんですよ。

 そんなものかしらん。そう云えば、さらに思い出すことがある。開山一千百五十年から何年も経っていなかったから、ずいぶん前のことだ。高野山に三日間ほど滞在して、ぶらぶらしたことがあった。とある場所に、四国巡礼を成就した人たちが次つぎに訪れていた。持参した納経帳やら白衣を差出している。巡礼完遂の認印をいだだけるらしい。
 若かった私は、公証役場で確定日付をもらうようなもんだナ、などと思って、近くの石ベンチに腰を降して、しばらく眺めていた。が、これは容易ならぬことと、しだいに気づき始めた。
 認印をいただく人たち誰もに共通する、なんとも云えぬ至福の顔つきに圧倒された。現今の薄っぺらな日本語で申せば、ヤリトゲタ感の表情である。

 そんなものかしらん、と、そのときも思った。
 今は思う。自分には、あんな顔をできる日は、生涯来るまい。せっかく定年になったのだから、せめて御府内(東京都内)八十八か所でも。そのうちの七十六番には、日常的にお詣りしているから、あと八十七か所か。
 コロナ禍が明けて、身動き自由になりたいと思う、最大の動機だ。