一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

興味あるなら

 『縮圖』は、この非常時に軟弱な小説はまかりならぬと、権力の横槍で連載中止された、未完の新聞小説。作者徳田秋聲は昭和十八年に他界したから、敗戦後に気を取直して書き継がれるということもなく、終った。

 物語は銀子・均平夫妻の半生記。銀子は芸者上りの置屋女将。貧しい職人の娘として育ち、家計を思い芸者に出て、流転の半生の揚句に、置屋を持った。均平は地方公務員や新聞記者など、いくつかの職業をへて、結婚したものの妻と死別。落ちぶれて、今は銀子のヒモ同然の身の上。だが家庭生活に憧れを抱き続けてきた銀子にとっては、ちょうどいゝ相手で、早い噺が割れ鍋に綴じ蓋。
 ある日二人は、買物をかねて銀ブラ(死語か?)。パーラーの席に腰を降して一服。というあたりから、物語が始まる。

 双方来歴のあらましが、ざっと紹介されれば、さていよいよ銀子の来し方あれこれ。東京を避けて房総は木更津で水揚げ。持前の器量と気っぷから客には人気。銀子に入れあげ過ぎて問題を起す客も、ひとりふたりでなく。東京へ、東北地方のK町へと、住替えを繰返すも、あまりに男好きする器量と気っぷが、芸でもあるが身の因果。たんびたんびに、銀子に足を取られる男が現れてしまい、次なる土地へと気まずい住替えを余儀なくされる。
 その間には、姉妹芸者のナニガシ姐さんと、助け助けられの浅からぬ縁も。そうなると秋聲の筆、今度はナニガシ姐さんを遡って、その半生記をひとくさり。やれやれ主人公はどこへ行ったかと、読者はすっかり迷路に迷い込むかと訝られる刹那、噺は突如銀子へ戻って……。

 我に返れば、銀座のパーラーから、まだ時間はいくらも経ってはいない。
 この小説が未完で、本当に好かった。この調子で作者の思う存分に語り尽されたのでは、読者は堪らない。
 軍国日本の膨張。薄暗く窮屈になりまさる世相を睨みつつ、とある花柳界人たちのいっさいがっさいを語りきれば、そこに人間世界の「縮図」が浮びあがるはずと看做した、文豪のなみなみならぬ決断が匂い来るかのようだ。

 とある人たちは評する。絵巻物さながらに、噺が横へ横へと広がってゆくばかりで、積みあがってゆく構成がない、また深められてゆく主題がないと。くさしているつもりらしい。なにを遠慮しているのか。悪口になっていないじゃないか。絵巻物どころか、紙芝居的なのだ。そういう小説なのだ。
 画面の裏では、拍子木をもった爺さんが、一人で語っているのだ。時には太鼓だって叩く。たしかに古いスタイルではあるが、それが自然主義小説の凄味ってもんだ。

 長火鉢の向うに、厚手木綿のガサッとしたような着物の、胸元をやゝくつろげた爺さんが座っている。高いところには、神棚もある。笑いの乏しい不機嫌そうな渋面で、煙草を手にしている。声の透りも悪く、すこし痰がからむ。
 ――なんだって記者さん、花柳界の噺を聴きたいってかい。話さねえこともないがね、たいして面白くもねえよ。たいていは忘れっちまったがね。つまりは、男と女の噺さね。
 ――ま、こんなご時世だ。時間はたっぷりある。知ってること、思い出すこと、洗いざらい喋るから、興味あるなら、聴いて帰りな。

 あとからあとから、登場人物が何人出てこようとも、すべて徳田秋聲一人のダミ声で語られる。繰返すが、それが自然主義ってやつの、凄味だ。
 小説だもの、作者が一人で書いているんだもの、当り前じゃないかと、思われるだろうか。そうじゃないんだな、これが。次の時代に、近代芸術家としての小説家ってのが現れてきて、それをはっきりさせてくれる。
 記者さんや、その噺は明日ってことに、しようじゃねえか。