一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

窪み

 冒頭第一文。「国境の長いトンネルを抜けると雪国であつた。」読者は雪景色を想い浮べてしまう。そんなこと、書いてない。雪国にだって、芽吹きの春もあれば、緑したたる夏もあるのに。作者によるマジックだ。
 第二文。「夜の底が白くなつた。」夜だとは報される。だが読者はそれ以上に、列車の窓からの景色だとまで、想い浮べてしまう。そんなこと書いてないのに。どうやら外は一面漆黒の闇のようでいながら、よくよく眼を凝らしてみると、霧でも湧きだしたか、かすかに白みがかっているようだ。やはり雪景色なのだろう。作者によるマジックだ。

 『雪國』は全篇にわたって、作者川端康成による入念かつしたたかな仕掛けで溢れかえった小説だ。
 主人公の駒子を、鄙には稀な美女と思い込んでいる読者がある。そんなこと、どこにも書いてない。イヤ俺は読んだとおっしゃるかたは、映画で岸恵子豊田四郎監督作品)か岩下志麻大庭秀雄監督作品)をご覧になったに違いない。
 「少し中高の円顔」で「平凡な輪郭」、「細く高い鼻」と「小さくつぼんだ唇」、「目尻が上りも下りもせず、わざと真直ぐに描いたような眼」に「下り気味の眉」と描写されている。
 むしろ彼女の取柄は、まっすぐな物言いや、てきぱき事を処理できる行動力からにじみ出る、さっぱりした気性にあって、作中たびたび「清潔感」と指摘される。
 「女の印象は不思議なくらゐ清潔であつた。足指の裏の窪みまできれいであらうと思はれた。」
 初対面の女性から受ける第一印象の表現として、どうかとも思うが、とにかくそう描かれている。

 この温泉場よりは数等貧しい、海辺の寒村に駒子は生れた。東京へ酌婦奉公に出され、引かされて妾奉公に入り、旦那の死をしおに、金輪際こんな生きかたから足を洗おうと、この地へ流れてきた。どうにかして踊りと三味線で身を立てたいと、師匠の家に住み込んだ。今では逆に、老いて体調すぐれぬ師匠とその一家を支えている。
 男出入りについては村内の誰からも後ろ指を差されぬよう、いわば禁欲生活を続けてきているが、彼女とて女。それどころか、かつては玄人女性として、男の肌にはとことん馴染んだ時期をも持っている。

 そんなある日、ちょいと頼りなくはあるが、悪気の微塵もなさそうな、いわば無難な旅行客島村が現れて、噺が始まったというわけだ。苦労が黒ずみとなって表に浮き出す女ではなく、逆に闊達なさっぱり感をかもし出すような女だ。世間知らずで少々背伸びの過ぎる島村ごときが、太刀打ちできる女ではない。「清潔感」などと称して、島村がすっかり転がされてしまう噺である。

 ところで、作家がこれくらい仕掛けた小説となると、一文ごとの暗示や婉曲を、丁寧に辿ってゆかねば、作者の計略に対抗できない。全篇通じて、読者は島村の眼を介してのみ、駒子を眺める仕組みとなっている。読者はじかに駒子を視ることなどできない。島村そっちのけで、俺は駒子を視たと云い張る読者は、川端の仕掛けた罠に陥っているのだ。
 (こういうカラクリは映画では成立しないので、観客は岸恵子岩下志麻を、自分の眼で観られるわけだ。)
 短い小説でもないのだが、もし末尾に一行、「という夢を島村は観た」と書き加えられでもしようものなら、それまでの作中出来事はすべて無かったことになってしまう。作品はそういう、危うい形をしている。

 なんでこんな面倒臭いことを、作家は企てたのだろうか。文芸作品もまた、彫刻作品や陶芸作品のように、ある立体性と存在感とをもって、読者の眼前に在るべきだという、近代芸術家らしい造形志向が作家を貫いていたからだ。作者の肉声などは、ひとまずどうでもよく、客観的存在として作品が読者の前にしかと置かれることが、目指されている。
 『縮圖』は秋聲の肉声でしか語られないが、『雪國』のどこからも川端の肉声など聞えてこない。

 この面倒臭さのカラクリ。脇役(兼語り手=眼の提供者)の島村について、考えなければならないのだが……。
 記者さんや、思いのほか駒子に手間どっちまって、一杯やりてえ気分だ。済まねえが、明日にしようや。