一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

それほど

 金剛院さまの駐車場脇に、小区画が区切ってあって、不動尊がお祀りしてある。新しい住民さんのなかには、ご存じないかたもありそうだが、かつて駅北口周辺を賑わせた毎月三回八の日のご縁日は、このお不動さまのご縁日である。今では名残として駅前に、お好み焼の露店が一軒出るだけとなっているが。

 ところでそのお不動さまの前に、道祖神のように、お地蔵さまが一体、立っていらっしゃる。

f:id:westgoing:20210721061542j:plain       「北 板橋道 南 ほりの内道」と彫り込んである。杉並堀の内のお祖師さまへと続く巡礼路だったのだろうか。それとも、と空想が湧く。
 板橋といえば、江戸を発って中山道最初の宿場、一方杉並堀の内といえば、甲州街道最初の宿場である内藤新宿の外側である。つまりこの道は、江戸市中へと足を踏入れることなく、中山道甲州街道を結ぶ道だったということだ。

 江戸から旅発つ者を、ごく親しい連中は見送りと称して、最初の宿場までついて行っては、別れを惜しんだり旅路の無事を祈ったりはむろんタテマエ、羽根を延ばして一泊のドンチャン騒ぎ。板橋・新宿のみならず千住・品川、街道最初の宿場ことごとくが、酌婦・飯盛り、つまりは宿場女郎たちで賑わった土地たることは、山東京伝十返舎一九もつぶさに描くところ。旅の空とは二日目からしか見えぬものとか。
 ときに、発つ人あれば、戻る人もあり。

 「ほれ、もう板橋が見えらあ、今日中に江戸だぁな。なんでえ、浮かねえツラしやがって」
 「兄い、じつは板橋にゃあ、オイラちょいとバツの悪い筋があって、顔を合せるわけにゃいかねえ女があるんだが」
 「しょうがねえな。よし、まかしねえ。この道を曲ろう。ちょいと遠回りだが、甲州街道へ抜けられるって寸法よ。なぁに、ここまで来りゃあ急ぐにゃあ及ばねえ。途中で暮れちまったら、板橋ほどじゃあるめえが、新宿の飯盛りも、乙ってもんよ」
 駅から、城西大学附属高校への通学路である。拙宅近所に、案外役立った道があったのかもしれない。

 またお地蔵さまの背景には、「寛政八年八月二十四日」とも彫り込んである。世に云う寛政の改革、よろず贅沢が取締られて、新しもん好きの江戸庶民は不平タラタラだった。
 売れっ子アーティストは喜多川歌麿東洲斎写楽なる謎の絵師が突如現れ、奇怪なる役者大首でわずか十か月間の大暴れをしたまま、忽然と姿を消したのは、ほんの去年のこと。北斎はめっぽう腕が立つものの、いまだ独自の画風を拓いたとは云いがたく、広重にいたっては、まだ来年にならぬと生れてこない。
 当代のベストセラー作家は山東京伝十返舎一九はまだ見習いライター兼編集助手だったし、滝沢馬琴は冴えぬ原稿を持込んではボツを繰返していた。一年後に、版元蔦屋重三郎講談社社長)が他界する。
 そんな時代に、このお地蔵さまは、板橋・堀の内間の道しるべに立たれた。

 二百二十五年ほど、立っておられる。そう聴くと長いようだが、尻尾の六十五年は、私もこの町にいた。ということは、たかだか私の三倍半に過ぎない。
 そう考えると、北斎だ広重だといったところで、それほど昔の人でもない。