一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

ままになって

 大きな観光の目玉などない町だが、コロナ騒ぎの前は、キャスター付きのスーツケースを曳く外国人さんを、しばしば視かけた。こぢんまりしたホテルのほかに、民泊と云うのだろうか、軽便で家庭的な宿泊施設が、何件かあるからだ。
 池袋に近い。ということは新宿・原宿・渋谷へも、秋葉原へも容易に行ける。時刻表を精査すれば、日光へも湘南・伊豆方面へも、便利な路線がある。ネット上には、旅慣れた(余計な出費を倹約できる)旅行者のクチコミ情報が挙っていて、英文の日本旅行ガイドブックにも記載例があるという。日本語より英語で知られる町となったのか。

 小ブームの火付け役となったのは、西向ホテルさんだ。小規模で、サービスに気が利く、快適なホテルだという。「サイコテール?」と、道を訊ねられて、どぎまぎさせられたこともあった。
 無観客未復興五輪などという情けないことになってさえいなければ、この町も今日あたりは、喫茶店焼鳥屋で、外国語が盛んに聴かれていたことだろう。テレビを店に持出した飲食店では、「中継やってます」と往来に向けて貼紙を出していたことだろう。

 ときに西向ホテルさんだが、往来に面した東側に入口がある。これいかに。じつは往来をはさんだ真向いに、西向不動尊が立っておられる。こちらは文字どおり西を向いておいでだ。つまりホテルの向きではなく、このご近所界隈が、古くからお不動さまに守られた「西向」という地域らしい。不動尊のご家系に暗いので、駅前のお不動さまとどういう間柄なのかは、まったく知らない。

 「天子南面す」といって、神仏もやんごとなきおかたも、南向きに登場される。平城だろうが平安だろうが紫禁城だろうが、御所はすべからく南向きに開かれ、古刹に南大門あるがごとくだ。
 地形の事情などで南に向けられぬとなれば、それはよくよくの例外的事情だっただけに、逆に庶民の呼び慣わすところとなったろう。信州は上田の先、別所温泉北向観音さまはとくに有名だ。また大相撲の正面とは北向きのことで、すなわち神は南を向いて土俵をご覧になるとされている。

 さて西向お不動さま、もちろん私がこの町に移ってきた頃すでに、ここに立っていらっしゃった。そして今は無き銭湯「不動湯」も健在だった。
 知らない街をあてもなく歩くことが好きで、仕事先などで急に時間が空いたりしても、いっこう苦にならぬ質なのだが、そこいら一帯が古くからの町か新興町かは、街なかに銭湯と質屋があるかどうかを視れば、一発で判る。ニュータウンに金融業者はいても、質屋はない。サウナ会館はあっても、銭湯はない。

 我が町では、質屋さんも健在だ。が、銭湯はこの五十年で、減ってきた。以前は駅からほどなくに「宮の湯」があった。神社のお膝元という屋号だったろう。駅から少し池袋方向に歩くと、「妙法湯」があって、近年大改装されて今も頑張っておられる。
 身を清める場であるお湯屋さんが、ご利益あらたかな屋号を名乗るのは自然だが、妙法・不動・宮。いずれも神仏に由来ある屋号だ。駅前にある神社・名刹の周辺地域という自負のようなものが、このあたりの住民にあったのだろう。今ではそういう自負心の片鱗を窺う機会も稀だが。
 念のため申すと、「駅前の」というのも、厳密には不敬な表現で、順序はむろん逆だ。いつの頃からか片づけられてしまったが、かつて神社の境内に、関東大震災で倒れたという巨きな石碑が横たわっていて、大正〇〇年〇月、当宮前に武蔵野鉄道の駅ができたと、漢文で彫り込んであった。武蔵野鉄道とは、買い取られて西武となる前の鉄道名である。鳥居のつい鼻先で、参道を鉄路に横切られてしまったのは、むしろ大迷惑だったのではあるまいか。

 じつを申せば今日は、銭湯の噺がしたかったのである。近年自宅では風呂を焚かず、シャワーのみで済ませ、お湯屋がよいをするようになった、そもそもの経緯をご披露するつもりだったのである。またいっさいエアコンを使わぬ私は、この季節には、日に三度も五度もシャワーを浴びるが、寄る年波で、皮脂の補充が間に合わなくなった。石鹸は日に一度。それ以上使うと乾燥肌になってしまい、汗疹(あせも)にやられて、手足が痒くてたまらなくなる。かといって、シャワーを控えても、痒くなるのである。どうすればいいのか?
 老人は宿命的に醜い。汚い。臭い。痒い。ということを申す心づもりだったのが、鳥居手前の石段に、腰を降ろしたままになってしまった。