まがりなりにも社会の一員と自認していた当時、俺はなんと無趣味な朴念仁かと、人知れず嘆いたものだった。車も運転しない。ゴルフもやらない。得手不得手より以前に、手を染めようかと思ったことすらなかった。
仕事にはいくぶんか差支えた。仕事をくださるかたや、お世話くださるかたや、相棒や、こちらの意向で動いてくださるかたがたとの付合いには、不便があった。が、致命的というほどではなかった。
その穴埋めに……いや、その話は、今日はよしにして。
アンタは読んだり書いたりが趣味だろう、とおっしゃってくださるかたも、あった。が、そうはゆかない。他分野ならまだしも、こと文学とその周辺事については、読んで感想を書く(もしくは述べる)ことを、金に換えて過した時期もあったのだ。趣味と申すわけにはゆくまい。
ところがこうして娑婆とのしがらみをご免こうむった身となってみると、やってみたいことだらけで、我ながら驚く。といっても、外国旅行したいとか、飛行機の操縦をしたいとか、もう一度恋愛したいとか、美味いものをたくさん食べたいとかいうような、画に描くような欲求は皆無だ。そんなところに面白味はないと、趣味にできることなどないと、思っている。
こう云い換えたらよろしいか。日々暮していることが、すべて趣味的だと。どうせ趣味的に過すのであれば、他人に評価される必要ないことに打込みたい。そして、我が半生を通じて不得手だったことを、愉しんでみたい。また、わざわざ金をかけたりせず、ひと様のお手を煩わせたりもしないことが望ましい。
思いついたのが、小学生時分に不得手だった、図画工作である。それも精巧を究めたプラモデルを仕上げるというような、マニアックな世界はいやだ。なんだか、人と競ったり、人眼を考慮に入れたりしているように思えて、気が進まない。(実際の趣味家の皆さんはそんなことなく、無邪気にご自分の心と対話しておられるに相違ないが。)
無理なく、束縛なく、〆切なく、評価もなく、しかも元手もいらない。そんな図画工作が望みである。
コロナ禍のもと、ここ数か月気に入っているのは、自分用の栞作りである。
私のような者にも、お土産や贈物をくださるかたが、稀にある。当方に物欲がないのをご承知のかたがただから、消えものが主だ。菓子や、漬物・佃煮など惣菜も多い。独居自炊老人にとって、まことに助かる。お礼状を差上げるだけでなく、なにか他愛ない遣り口でもいいから、形にできないかと、始めたのだった。
到来物の函中に、店の沿革や商品を紹介する小印刷物が封入されているから、面白い図案や惹かれる書体の部分を切貼りして、我流のデザインとする。小学三年生程度の工作だ。
裏をお見せできないのが、残念だ。裏は表を邪魔してはいけない。かといって、裏なりの主張はしなければならない。また商品は一流でも、私の工作素材としては、使い物にならぬ老舗もある。考えることは、案外少なくもないのである。
左から、「浅草今半」二枚、「両口屋是清」二枚、「鞍馬辻井」二枚、「千葉県市川落花生最中」、「京洛辻が花」である。
唯一問題点あり。今はかつてほど、ものを読まない。