一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

植物染料

 「文学の鬼」と異名をとった宇野浩二については、盟友広津和郎あるがゆえに、多くが語り残されている。なにせ学生時代以来の親友で、文壇にあってもお神酒徳利さながら、つねに一対のごとくに視られてきたご両名だから、当然だ。
 藤村花袋、菊池芥川、横光川端など、いく対かの有名コンビが数えられるが、なんといっても逸話の面白いのは、広津宇野コンビである。

 しかし戦後(晩年)の宇野の側近に、弟子として仕えたのは、水上勉だ。松本清張と並んで社会派推理小説の大家とされる、あの水上勉である。師弟の作風の違いを思えば、意外と感じる向きもあろうが、水上による『宇野浩二伝』上下二巻にお眼通しいただければ、意外さは氷解する。この小説家は、娯楽小説のみをもって語られるべき人ではない。

f:id:westgoing:20210725014859j:plain

水上勉 昭和46年、『宇野浩二伝』刊行のころ。

 とある講演で肉声をもって伺った、水上勉敗戦の日の逸話が忘れられない。うつむくたびに顔にかかりくる前髪を、掻き揚げ掻き揚げしながら、訥々と語られた。
 結核の病歴があるため第二国民兵(予備役か?)だった自分にも召集令状が来た。輜重隊とある。なんじゃろう、この難しい字は。
 「ツトムゥ、こりゃシチョウ隊じゃ。輸卒(ゆそつ:運搬兵)じゃがな。馬や荷車で、物運びじゃなあ」
 自分のような躰の弱い者まで駆り出されるとは、この戦争、大丈夫なんやろかと思った。

 敗戦の日は、ちょうど家に帰っていて、父の手伝いをしていた。正午ころは、父が曳く荷車の後押しをして、若狭の峠を越えていた。こゝまで来れば、あとは下りだ。
 「ツトムゥ、一服しようかいの」
 峠からは若狭湾の眺望が一面にひらけている。雲ひとつない快晴。海はまるで、一面にガラスの粉でも撒いたかのように、微細に輝いている。
 西国訛りとでも云うべきか、「ラスのなを」と頭にアクセントが来る口調で、おっしゃった。「キラキラキラーっと」ともおっしゃった。どういうものか、ラスのなが、今でも私の耳に蘇る。
 「という次第で、罰当りにもワタクシは、陛下の玉音放送を、伺っておりません」と、さも申しわけなさそうに、噺を結ばれた。

 それがなんだって云うのです、水上先生。そんなこと、どうってことないじゃありませんか。若かった私は、そんなふうに思った。今思えば、その感想を書いたり、人に云ったりしなくて、よかった。そういったごくごく微細な断片が、じつはこの大流行作家の心の中で、なにかを支えているのかもしれぬと思い当ったのは、数十年も経ってからである。
 家出したり、寺の小僧修行に入ったり、修行が辛くて脱走したあげくに、数え切れぬほど職業を転々として、這い上ってきた文士である。その眼が視据える、人間の哀しみは、ひととおりではない。

 『五番町夕霧楼』や『雁の寺』は、また『飢餓海峡』や『霧と影』は、今日どのように読まれているのだろうか。
 たとえば三島由紀夫金閣寺』を、人は傑作と云う。たしかに傑作である。並外れた文才をもって練りあげられた言葉を、これでもかとばかり精巧に駆使して、極端に凝縮された心理を追詰めて見せる。そこに生じた象徴性に、読者は近代芸術としての小説造形を夢観る。まことに結構である。
 で、美が自分のものにならぬ絶望と苛立ちとから、金閣に火を放つ青年に、読者は、本当に共感したのだろうか。
 モデルを同じくする放火青年は『五番町夕霧楼』にも登場する。こちらには象徴性などない。ただただ孤独で、哀しい青年だ。不出来な男と云い換えてもいゝ。だが解る。
 三島由紀夫の画は、金属成分を含んだ発色の良い絵具で描いてある。造形的だが、嘘臭い。水上勉の画は、天然由来の植物染料で描いてある。

 大正時代から叩き上げてきた「文学の鬼」を、水上勉が師としたのは、出会いの偶然であったかもしれないが、後から振返れば、理由があったかにも見えてくる。