一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

今もって

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ご夫妻の志。メディアは二度と、庶民大衆をダマしてはならない。

 東京外国語学校(現東京外国語大学スペイン語科にあった頃、血盟団事件から五・一五事件へと、不穏な空気に満ちた世相だった。暴力はよろしくない、テロリズムはけしからんと、言葉にはしながらも、連中の気持は解るという気分が世間に溢れていた。

 二・二六事件のころ報知新聞に入社して社会部にあった武野武治記者は、近衛文麿にも東条英機にもインタビューした。やがて朝日新聞に移籍、アジア担当特派員としてジャカルタに駐在した。
 二百数十年もの植民地支配を受けてきた蘭領東印度(現インドネシア)から、日本軍はたしかにオランダ人を追い出した。ほんの一瞬、現地の人びとから、救世主のごとくに視られた。あくまでも、ほんの一瞬だけ。
 化けの皮はすぐ剥げ、ひそかな抗日運動も、あろうことかオランダ領への復帰を願う人びとまで現れた。

 己惚れ、傲慢、不正、独善。このままでは不安、危険、けっして将来の日本のためにならぬと、武野記者は血まなこになって取材に走り、記事を書き、打電した。東京本社のデスクで、武野記者の外信記事が採用されることは、なかった。
 大本営による嘘発表をよそに、太平洋上での戦局芳しからざる昭和十八年、東京への引揚げを命じられたが、すでに本社社会部には、武野記者が活躍できる仕事はなかった。
 あれほど記事を送ったじゃないか。報告したじゃないか。云わぬこっちゃない。昭和二十年八月十五日、武野武治記者は、朝日新聞社に辞表を提出した。

 その間のこと、その後のことについては、むのさんご自身の名著『たいまつ十六年』がお奨めだ。初版である企画通信社版、改訂定本版としての理論社版は、いずれも古本屋アイテムとなっていることだろうが、現代教養文庫岩波現代文庫という具合に刊行され続けていて、この本が読者の眼から見えなくなったことは一度もない。
 この本を皮切りに、むのさんの論説集は何冊もあるが、これから読む人のための最初の一冊となれば、今もって本書以外には考えられない。

 定本版刊行の理論社社主にして文筆家でもあった小宮山量平さんは、みずからジャケットカバーのコピー(帯コピーに相当する)を書いた。「戦後日本のいちばん大切な本」と。