一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

ラストスパート

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 マラソンの実況放送で、優勝を競う先頭争いばかり伝えるのが、不満だ。優勝者ゴール後、まだ後続選手が次つぎゴールしているというのに、そっちのけで優勝インタビューをしたがるのに、腹が立つ。「レースを映しやがれ、レースを!」画面のこちらで、毎回のように大声を挙げている。
 スタートラインに立つまでが大変だった。選手それぞれにドラマがある。完走者全員が勇者だと、どこかで聴いてきた台詞を並べながら、その実スポーツを芸能の興行としか考えていない魂胆が露骨だ。いや、そう申しては「芸能」に失礼だ。「程度の低い芸能的意識」と、丁寧に云い換えておこう。

 駅伝や特定の国際マラソンのみ、第二第三放送車やバイク・リポートが着く。シード権争いや後方での順位変動に、注目が集まる競技だからだ。
 複数の放送車をセンターで繋ぐという放送形式は、今では珍しくもなかろうが、かつては日本のお家芸だった。外国の放送関係者が、よく研修・見学に来日したものだった。日本の発明かどうかは知らない。が少なくとも、定番形式を確立し洗練したのは、日本の放送局である。

 なぜか? 国際的マラソン競技において、日本人選手が先頭集団に含まれているなどということは、想像もできなかったからだ。
 第一回ニューデリー、第二回マニラに続く、第三回アジア競技大会は、東京で一九五八年に開催された。マラソン・コースが学校のすぐ近所を通るというので、先生に引率されて学校を出た我ら小学生は、沿道で応援した。今の環状六号線山手通りである。小旗が配られたが、数が足りず、私はもらえなかった。
 私たちの眼の前を、選手たちは北から南へ、板橋方向から新宿方向へと走り過ぎていった。大柄で毛むくじゃら、長い髪を頭頂に丸めて布で包んだ、インドの選手が過ぎていった。色浅黒いタイかフィリピンの選手が過ぎていった。日本人が来たと思ったら、韓国の選手だった。日本人ではエースの貞永選手だけが、かろうじて前のほうにいた。

 選手たちが通り過ぎてしまって、さてまた学校へ戻るのかと思ったが、先生からの号令がなかなか掛らない。何があったのだろうか。私たちはすっかり飽きてしまい、落着きもなく無駄話をして、かなりの時間を過した。と、北のほうから、ざわざわする声がさざ波のように伝わってきた。まだ一人、最後尾の選手が走っていたのだ。
 一同驚いた。私たちがそれまでにも増して、ガンバレの黄色い声援を送ったことは、云うまでもない。

 翌日のラジオ・ニュースで、詳しい事情を知らされた。国立競技場では、すでにマラソン関係のボードやテープも片付けられ、次の競技が始まっていた。観客の関心も、とっくに次へと移っていた頃、一人の選手がひょっこりと、競技場に還ってきた。速度は並みの人が歩いている程度だが、弱よわしくはあっても確かに腕は振られ、彼は走っていた。
 場内一瞬ポカンとしたが、やがて観客も、次の競技を始めていた選手たちも、事態を呑込んだ。トラックもフィールドも、すべての競技が中断された。観客は総立ちとなって大歓声を挙げ、選手の歩調に合せて拍手をしながら、全員の眼は、それからトラックを四分の三周する選手に釘付けとなった。

 ネパールの走者だった。そのときの記憶があるものだから、行ったことも観たこともなく、ひとりの友人もないネパールという国に、今日まで何となく好い印象を抱いている。

 競技とは、勝者を決めるだけのものではない。レースは、先頭集団の有力選手たちがゴールした時点で終了するのではない。
 後続選手たちが今ラストスパートしているというのに、ゴール直後の疲労困憊した選手をとっ捕まえて、無理やりにでも「支えてくださった皆さんのおかげです」と云わせねばやまぬ、下品なスポーツ実況に、さて、いつ頃からなりさがったのだろうか。
 放送時間の枠だ、スポンサーへの配慮だと、言いわけばかり。かつては自国選手を映したいばかりに、第二移動車やバイク・リポートまで発明したくせに、工夫できぬはずがなかろうに。