二〇一七年、ヘッドコーチに就任したトム・ホーバスは抱負を問われて、答えた。
「東京オリンピックで、アメリカと決勝を闘う」と。
会場は笑いに包まれた。その意気軒高たるや大いに好しとの、激励だったろうか。あるいはこれもアメリカン・ジョークにちがいないと受取られたろうか。それとも、このビッグマウスのアメリカ人め、との嘲笑だったろうか。
老人は想う。抱負を達成するなどということは、この世にそうそうあるもんじゃない。一度もないのが普通の人生だ。今日の舞台に立って、「ざまあ見やがれ」と心の底から吠える資格は、世界でただ一人、ホーバスさんだけにある。
実況ライブの解説に、萩原美樹子の声が聞える。
「ベストエイトの壁が、長かったですからねぇ。選手たち、コーチ・スタッフ陣、よくこゝまで、来てくれました。オリンピックの、これが決勝ですものねぇ」
老人は想う。萩原さん、あなたのシュートを視たこともない選手たちですね。あなたがどれほどずば抜けた選手だったかも、知らないお嬢さんたちですよね。
アメリカのプロチームからドラフトを受けて、WNBAでプレーした、最初の日本女子選手でしたね。その後も二人目が出てこない。ご帰国後も、いろいろなことがありました。
「どんな気持でしょうかねぇ」表彰台で銀メダルを首にかけた選手たちを眼にして、思わず声に出てしまわれたのでしょう。私はしかと、聴きましたよ。
長岡萌映子がリバウンドをもぎ取る。町田瑠唯へパスアウト。三好南穂へ絶好のパスが渡って、スリ~~ッ! 今のナショナルチームにあっては、普通のプレイだ。
しかし老人は想う。ほら、あの時の三少女が、今コートにいますよと。
三好は名門桜花学園二年生にしてエリートプレイヤーだった。優勝を狙って当然で、むしろ優勝できなければ先輩たちに申しわけないというほどの、常勝軍団だった。
が、その年の札幌山の手は強かった。主将町田が縦横のパス回しで、二年生の怪物・超高校級プレイヤー長岡を使いまわして、インターハイ・国体・ウィンターカップと高校三冠をやってのけた。町田はその頃から、猛獣使いと異名をとった。
翌年、町田は卒業したが、次の主将としてまだ長岡がいた。三好は雪辱に燃えたが、ここでも山の手に阻まれた。
今のWリーグでも、富士通レッドウェーブとトヨタ自動車アンテロープスの試合は、星勘定や得点経過に拘わらず、面白い。町田がドライブインすると、直後に必ず三好もドライブインを仕掛けてくる。町田がスリーを決めると、三好も必ずスリーを放る。負けず嫌いの三好の意地が、めらめら燃えている。
長岡は、町田より一年遅れて富士通に入団したが、のちトヨタへ移籍。今は三好のチームメイトである。
町田は今回オリンピックのアシスト王。準決の対フランス戦における、一試合十八アシストは、オリンピック・レコードとのことだ。
昭和三十年代後半、男子の試合前に行われていた女子の試合も、観るようになった。男子は日本鋼管・日本鉱業の二強時代。女子はニチボー平野(後年のユニチカ)全盛期で、他に三菱電機名古屋、日本レイヨン、日本通運、日本興業銀行などが有力チームだった。
オリンピックに向けた代々木体育館はまだ影も形もなく、早稲田大学記念会堂(文学部正門を入って右手。今はすでにない)が、全日本選手権(天皇杯・皇后杯)の会場だった。
老人は想う。あの頃の名選手たち。お孫さんがたに教わりながら、どこかでネット動画をご覧になっておられるだろうか。「どんな気持でしょうかねぇ」