一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

最後のひと巻

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 台風一過、東京はなんとも晴れ渡ったものだ。全国的に、暑いんだそうだ。
 台所にも気乗りがしない。ちょうど煙草も切れそうだ。ついでにおやつか軽食でもと、ファミマへ向う。あっ、マスク忘れた。煙草以外の買物をするなら、袋も必要だ。玄関先や木戸を出てからでさえ、往ったり来たりするのは、毎度のことだ。

 店内は涼しく、救われる心地だ。いろいろとご忠告を受けながら、まだエアコン無し生活を続けている。
 雑誌ラックに『文藝春秋』が出ている。夏の風物詩、芥川賞発表号だ。カゴに入れておくか。多くのご商売にあって、ニッパチといって、二月八月はどうしても売上げが芳しくなくなるそうだが、出版界もご同様だったらしい。ヨシッそれならと、その月に芥川賞発表号を出す。おかげで『文藝春秋』だけは、ニッパチ知らずどころか、例月より部数を伸ばしさえする。みずからも流行作家だった創業社長・菊池寛の発案と聴いた。凄い人もあるもんだ。

 かく申す私も、よほど興味ある特集でもない限り、立読みや借り読みで済ましているが、芥川賞発表号は買う。習慣である。
 毎回受賞作の熱心な読者かと申せば、そうでもない。というより、読んでみて面白い、感動したという経験が、めっきり少なくなってしまった。老化現象である。また時代感覚がズレてしまっているのである。選考委員のどなたかが、しきりに推奨しておられる箇所について、正気かっ、そんなとこ推してどうする。不遜ながら、そう感じてしまうことすらある。

 選考委員のうち、小川洋子さん、島田雅彦さん、山田詠美さんのお三かたについては、新人もしくは新進気鋭であられたころ、読書案内コラムで推奨したり誉めたりしたことがある。地方新聞の埋め草連載に過ぎぬから、当然ながらご本人がたのお眼には止まらなかったろうが。
 またお若い諸君に小説書きの手ほどきをする教室では、堀江敏幸さんの短篇集『雪沼とその周辺』を長年教材にさせていただき、細部や、書かれずに表現されている裏を、とことん精細に読み込む訓練をした。ご恩を感じている。
 小川洋子さんの『密やかな結晶』『薬指の標本』『博士の愛した数式』や、島田雅彦さんの『夢使い レンタルチャイルドの新二都物語』『忘れられた帝国』や、山田詠美さんの『ベッドタイムアイズ』『指の戯れ』を、若者たちとの議論の課題に指定したこともある。
 だが、その後も熱心な読者であり続けたとは申しがたい。というよりも、日常のあくせくを優先しなければ、生きてこられなかったのだ。先生がたの現在のご心境については、なにも知らない。けれど、なんとなく好い印象を抱いてはいる。

 その人たちが推奨するのだから、きっと佳い受賞作であるに違いない。が、私にはもうひとつ感心しきれぬ場合が少なくない。つまりは、私が時代から置いてけぼりを食っているわけだ。
 かつて、石川達三永井龍男石川淳といった大作家たちでさえ、芥川賞選考委員辞任の弁に、近年若い作家の作品が解らなくなったと云い残したものだった。解らなくなったのじゃなくて、面白くなくなったのだっただろう。

 そこへゆくと、と、ここでふいに思い出すのだが、正宗白鳥が晩年まで持続した好奇心はあっぱれお見事だった。ふ~ん、現代にはこんなこともあるかなぁ、若いもんにはこんな心理もあるもんかなぁ、不思議なもんだ、などなど。
 白鳥のひそみに倣えと申したきところなれど、この力量では無理か。

 さて、買ってはきたものの、この『文藝春秋』九月号。どうしたものかしらん。
 とりあえずはお盆。墓所の掃除と金剛院さまご本尊へのお供えが先だ。そうそう、蚊取り線香が最後のひと巻になっているから、帰りに買ってこなければならない。