一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

弁当

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まだ洗う前。いつも完食。ご馳走さまでした。


 会社員として頻繁に出張していたころ、たとえば西へ向うとしたら東京駅で、とんかつ弁当とお茶を買込んで、新幹線ホームに上るのが常だった。

 六時ちょうど発か六時十二分発に乗るわけだが、自由席車輌に乗車する場合はもちろん、指定席車輌の場合でも、目星号車の後部扉の前に早くから並んだ。
 今の車輛はどういう構造か知らない。車輛最後部座席と壁との間に三角の空間が空いて、そこが荷物置場となる。商品見本やカタログほかは、すでにルートで歩く各都市のホテルあてに、その地での使用量を送りつけてあるが、今日の到着地でいきなり使うものは、持って出ねばならない。けっこう小さくも軽くもない荷物だ。
 最後部座席背面のデッドスペースなど、家族連れ観光客などからは、めったに気づかれない。が、早朝新幹線は、出張慣れした、いわばツワモノ集団だ。油断は禁物。先を越されぬよう、座席指定であっても、先頭に並んで乗車せねばならない。

 荷物は無事納まった。さて、と車内を視回すと、朝刊か週刊誌を開く者、持物や書類を改める者、早くも居眠りしだす者。いつもの風景。しばらくのあいだこゝを事務所とする者らの、心の準備作業である。
 新横浜を過ぎる。今から数時間ルームシェアする顔ぶれは決った。やおら弁当の包みを開ける音が、あっちでもこっちでも一斉にし始める。私も、とんかつ弁当を取り出した。気合いを入れるにゃあ、やっぱりコレよ。自分に声掛けする気分だった。

 いつ頃からだったろう。とんかつ弁当へのこだわりが薄れ、ハンバーグでも焼売でもいいかと、思うようになったのは。
 やがて五十代。会社員じゃなくなり、親の看病と在宅介護が本職となった。台所は日々欠かすことのできぬ、重要な仕事となった。栄養バランスだとか、カロリー上限だとか、食材と旬の値動きだとか、調理法と保存期間だとかが、つねに頭から離れぬようになった。かつて丼はカツ丼、サンドイッチはカツサンドと決っていた男が、トマトレタスサンドなどと、まぁ訳の判らぬ食いものまで、口にするようになった。

 現在は気ままな一人家族。台所は格好の気散じ場所であり、我がミニ運動場だ。
 それでもこの陽気。どうかすると面倒臭くなって、スーパーかコンビニの弁当に手を伸ばすこともある。とんかつ、唐揚げ、焼肉、ハンバーグ、生姜焼きなどなどを選んだことはない。肉のカタマリというものに、まったく興味がない。食材の数(分量はどうでもいゝ)にばかり眼がゆく。つまり幕の内弁当派である。

 ただ今、真剣に思い迷っている案件がある。ファミマで、いずれか片方が売切れていれば問題ないが、両方揃っている場合には、幕の内弁当三百九十九円と明太海苔弁当四百十七円を、どう選択すべきかという、難問題である。
 厚焼き玉子と芋コロッケの半切、これらは双方同じもの。幕の内の鮭切身半切と海苔弁の白身魚フライ・タルタル(つまりはマヨネーズ)、これは白身フライの勝ち。だが海苔弁の竹輪天ぷら、これが足を引っぱる。だったら幕の内のミンチ団子揚げが、小さくともワンポイント。幕の内の白飯には黒胡麻。微量であっても重要で、好みにもよるが海苔にも十分対抗できる。だが海苔弁には、ほんの茶匙半分ほどではあるが、明太子が載っていて、そこそこ存在感を発揮している。
 問題は、白飯と海苔のあいだに敷き詰めてあるおかか。温めればもちろん、冷めた状態で食べても、じつに美味い。これがポイント高い。

 ここでたち現れる難問。ポイント集計の差が、定価の十八円差に見合うか見合わぬかという究極の判断を迫られる。
 残念ながら私のなかで、まだ確たる私見が確立されていない。
 普段は思い出しもしないけれども、とんかつ弁当一択の時代から、なんのかんの長く歩いてきた。