一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

風の頃

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芥川賞直木賞150回全記録』(文春ムック)より無断で切取らせていただきました。


 講演会のトリは、五木寛之さんだった。スペイン戦争のお噺で、歴史に埋れた市民の運動などをご紹介された。学園紛争真只中だったから、学生聴衆への注意喚起、ありていに申せば、ほんのわずかの共感・激励を含みつゝも、冷静な判断をと懸念を表明されたのであったろう。無知な私は、その真意を把握しかねた。

 『さらばモスクワ愚連隊』『蒼ざめた馬を見よ』『青年は荒野をめざす』次々ベストセラーで、飛ぶ鳥落す勢いの人気作家だった。朝鮮半島からの引揚げ体験、大学は苦学の果てに露文科除籍。業界紙編集者・作詞家・放送作家から叩き上げて直木賞を受賞。その経歴までが学生を痺れさせていた。
 薄暗いジャズ喫茶の隅っこで、「安穏な定住者の眼じゃなくてさぁ、旅人の眼で視なけりゃ、人生は見えないと思うんだよな」などと気炎を吐いている若者は、まず間違いなく五木病の重症患者だった。
 「旅」「風」「デラシネ(根無し草)」は、ただ今申すところのトレンド入り。さしづめ五木さんは、新興宗教「自分探しの旅(当時そんな言葉はなかったが)」教の教祖様であられた。

 だがご本人は、そういうかたではない。当初からご自身を客観的に視詰め、役割を自覚して、冷静に対処なさってこられたかたと、お見受けする。
 二度にわたる休筆宣言。この調子で突走るごとく書き続けては、自分が擦切れるばかりと看るや、幸い流行作家として蓄えもあることだし、休筆を決断。奥様と旅に出られる。また龍谷大学聴講生となられて仏教の勉強をなさる。
 かつて半島で敗戦のどさくさにご母堂を亡くされ、父上と弟・妹の四人で南下。二年かけて日本へ帰還された、十三歳から十五歳だった少年は、長じてのちも、みずからが生きてゆける、ごくかすかな風が吹いてきたのを、視逃さなかったのだろう。

 第七次『早稲田文学』編集室は四谷三栄町にあった。四谷三丁目交差点から新宿通りを、東つまり四谷駅方向へ数分歩いて、左手へ入ったあたりの、木造モルタル造りのアパートだった。私は外で待っていた。
 中は二間続きで、奥の間では編集委員のお歴々が会議。キッチンを兼ねた手前の間では、徒弟のような見習いのようなバイト学生が三人、待機していた。うちの一人と今夜、酒を飲む約束だった。私は中へ入るバイト学生の身分ですら、なかった。

 あッ、と息を呑んだ。五木寛之だっ。多忙絶頂の流行作家ゆえ、会議に遅参なさったのだろう。むろん私は一歩さがって、頭を下げた。
 眼の前を通り過ぎていった五木さんは、メディアで観るハンサム小説家ではなかった。土気色というのはこれか。どんよりとくすんで、人間の肌がこんな色になることもあるんだ。私は生れて初めて視た。売れっ子作家の暮しとは、これほどにも苛酷なのか。なにせ、腰掛けて書くと睡魔に襲われるので、五木さんは立ったまま、譜面台に開いた原稿用紙で書いているという、証言だか与太だか判らぬ伝説が、若者間に流布していた時期だった。

 手前の間ではバイト学生らが、胸に渦巻く想いを吐き出すべく、小声ながら怪気炎を揚げていた。いわく文学第一。武士は食わねど。たとえ妻子泣かせても。百年の志。
 ふと立停った五木さんは、ものの十五秒か二十秒、学生らの気炎をお耳にされ、
 「でも君たち、人は幸せになるために、生れて来たんだから……」
 云い残して、奥の間へ去られたそうだ。

 後刻居酒屋で、三人から聴かされた。私と約束していた彼は、五木先生からたしなめられたと、肩を落して意気消沈気味だった。あとの二人は、さしたるダメージもなかったと見え、
 「へぇ、五木先生ほどのかたでも、あんな月並なこと、おっしゃるんだねえ」
 と、笑いながら話していた。
 ひとり意気消沈していた彼、立松和平だけが、のちに小説家になった。