一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

難問

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 目下、少々思い迷っている案件がある。微妙な、つまり非論理的な飛躍判断をどう跨ぐかの問題なんだけれども。

 コロナ禍前からさして苦にもしていなかった洞穴生活だが、一日の三分の一、うっかりすると半分近くも、パソコン前か机周りにいる。台所には日に二回、合せて三時間強といったところ。睡眠は平均六時間。あとは草むしりだのゴミ分別だの、日によっては買物だの洗濯だの銭湯だの、家事雑用を細ごま。だから散髪とか菩提寺さんへの墓参りとか、たまの行事が入る日は、これでもたいそう忙しい。

 アイス珈琲とカルピスは冷蔵庫に常備しているが、パソコン前でふと口寂しいとき、また小腹が空いたときなどの間食までは、とても手が回らない。いきおい、無職の年金生活者には贅沢だなぁと思いつつも、ビッグエーやファミマで、キャンデーや菓子類に手が伸びる。
 ファミマで、十六個入りミニシュークリーム二百六十円と、六個入りミニエクレア二百三十九円(いずれも税別)とでは、どちらが自分にとってはお値打ちか。これが目下の難問案件だ。

 ミニエクレアは単価およそ四十円、ミニシューは十六円二十五銭。ただしミニシューはあまりに小さいため、一度に二個食べてしまうことが多い。となると、オヤツ一回分としては三十二円五十銭だ。さて四十円と三十二円五十銭。この差をどう評価するかが、大問題なのである。

 世間には、エクレアなんてシュークリームを細長くして、テロッとチョコレートをぶっかけただけのもんだろう、などと平気でほざくおかたもあるという。叙しがたし。
 口中に頬張って、甘味とチョコ味のバランスに神経を尖らせた経験をもたぬ、気の毒なおかたの云い草である。シュークリームとエクレアとは、別の菓子だ。
 ざる蕎麦とはもり蕎麦に刻み海苔を振掛けただけのものと、おっしゃるに等しい。外見も手間も、確かにそのとおりには違いないが、ざる蕎麦はれっきとした種もんと、西鶴芭蕉の時代から決っている。食べる心地が異なるのだ。

 外から、物質的に、構造的にしか物を視ない時代・人びとばかりとなれば、衆寡敵せずではあるものの、それこそが合理的・論理的ひいては理性的思考というものと、きめつけられてしまうと、あいや待たれよとなる。
 ざる蕎麦を種もんと区分したのは、見せかけだけのこけ脅しか。恣意的な強弁か。神秘を騙った論理の飛躍か。まさか。さようのたまう御仁こそ、舌を忘れたまま言葉に振回されていると見えるが、どうだろうか。
 それにお気づきいただけぬかたには、シュークリーム・エクレア問題の深奥をご推察いただけまい。

 条件がまったく同一であれば、私はエクレアという菓子が、好きなのである。アップルパイほどではないにしろ。
 大急ぎで申し添えると、ワンパケージからミニエクレアはオヤツ六回分、ミニシューは八回分ではあるけれども、幸いなことに、冷蔵庫内で乾燥したパサパサの皮も私は好物であるから、保存時間に関わる優劣はない。
 問題はただひたすら、オヤツ一回分につきミニエクレアはおよそ四十円、ミニシューは三十二円五十銭。この差を、チョコ味をもって超えられるか否かに帰一する。

 非論理的な飛躍判断の出番だろうか。未解決のままに今日のところはとりあえず、ミニシューを買ってきたけれども。