一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

名訳

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中野好夫(1903~1985)

 清富に限る。中野好夫はしばしば喝破したものだった。
 清貧を尊ぶことを、とかく日本人の美徳または美意識のように云うが、本心は富裕でありたい。だが富はとかく腐にも濁にも汚にも堕しやすい。濁富と化すくらいなら、しかたなく清貧でいようか、というわけだ。
 中野好夫は英文学者として東京大学の名物教授だったが、評論家・翻訳家として我われ下じもには近しい。「清富」の一語にも見えるとおり、硬直した先入観をマサカリで断ち割るかのような、眼も覚める箴言を繰出されたかただった。

 『シェイクスピアの面白さ』というエッセイ集がベストセラーになったことがある。西洋古典についての噺など、高尚読書人から高く評価されることはあっても、一般向けにベストセラーになるとは、まことに珍しい事件だった。
 冒頭まず、シェイクスピアの偉大さについて自分は語らない。語る者は他にいくらもあろう。シェイクスピアの面白さだけを、自分は以下に述べる。開口一番さよう宣言される。韜晦か自信の顕れか、それとも学界への皮肉・当てこすりか、読みようはいろいろあるところだが、とにかく意表を衝かれる。
 以下読み進むにつれて、これが本当に面白い。シェイクスピアって、こんなに笑えるのか、こんなに猥褻なのか、これほど世間知に富み、心理の襞をうがっているのかと、まさしく眼からウロコの連続だ。それ以前にも、木下順二福原麟太郎の本から導きを得てはいたものの、私がシェイクスピアの容易ならざる巨大さを実感したのは、この一冊によってだった。

 新潮社主催の催しで、連続講演を拝聴したことがある。主として、『ガリヴァー旅行記』の作者スウィフトのお噺だった。英国的ヒューマアともフランス的エスプリとも異なる、サタイア(皮肉・当てこすり)という語をキーワードにされた。
 毎回、風呂敷包みを小脇に抱えて登壇され、教卓にドスンと置かれた。
 「話に自信がありませんので、こうしてコケオドカシを持ってまいりましてな」
 本当に、念のための恰好付けかと思いながら拝聴していると、噺が佳境に入ったころ、
 「そのことが、さて、どこかに書かれていたんだが……」
 ようやく風呂敷の結びがほどかれる。部厚い原書が何冊も出てきて、それらをペラペラやりながら、
 「あゝここです。こんなふうに云ってます」
 と続いてゆく。呆れる思いで、伺っているしかなかった。

 近代小説家としては、サマセット・モームがお気に召されていたようで、しばしば言及された。通俗的な物語作家のように云う人もあるが、モームは大人の作家でしてな、と強調され、ある短篇のこんな筋を例に出された。
 夫と妻と、妻の浮気相手という三角関係。夫は妻を寝取られている想いがして許せない。妻は夫を嫌いではないが、恋人のほうがもっと好きだ。恋人はもっと頻繁に彼女と会いたいが彼女は人妻だ。三人ともが現状に不満を覚えてしかたがない。作者はどう決着させたかと申せば、夫婦が離婚して、妻は恋人と再婚した。その結果、夫は他人の妻と密会するようになって満足。妻は恋人を夫にできて満足。恋人は毎日妻と暮せて満足。三人の交友は変りなく、末永く続いたという。
 落語の三方一両損みたいな噺だが、人間なんてしょせんは気の持ちようといった、モームの渋い大人の眼が、光っておりますなぁ、というようなお噺だった。

 偶然ながら後年、私もモームを短篇小説のお手本の一人と考えるようになり、お若いかたがたにはさようお奨めしてきたのだが、例に引く箇所は、中野先生と同じではない。

 翻訳家としての中野好夫は、日本語巧みで名訳多く、それだけに巧過ぎる訳もあったかたとお見受けする。
 アメリカ文学の斎藤忠利さんは、シェイクスピア全訳で名高い小田島雄志さんと、学生時代同級。お揃いで中野好夫教授の講義に出席されたとのこと。あるとき教材作品の一場面に、心乱れ気もそぞろの恋心が発生。
 「諸君なら、どう訳すかね?」
 斎藤学生、小田島学生、次々試訳を申しあげるが、中野先生お気に召さない。やゝあって、やおら先生、
 「こゝはだね……お医者さまでも、草津の湯でも」
 学生一同大爆笑。やはり中野先生はスゴイ、となったそうだ。

 およそ三十年後、私はその斎藤忠利先生に、ご著書の担当編集者としてお仕えする機会があって、その場面を直接に伺った。
 「僕も小田島君も、大笑いしたのだったがねぇ。しかし多岐君、どう思う? あの中野先生の訳、今思うと、好い訳じゃなかったように思うんだが……」
 その斎藤先生のお顔とお声に、また私は大笑いしたのだった。