一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

辻褄

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 迫水君という店員さんが、ファミマに長く勤めている。髪の長い長身イケメンで、俯き加減に、低く澄んだ声で話す。物静かな性格のようでもあり、じつは爆発性の物質を内に秘めているようにも見える。
 「君、ロックかジャズ、やってる?」
 ある時、ほかにお客の影もなかったので、訊ねてみた。「まさか……」薄笑いを浮べて、一蹴されてしまった。

 鶴中さんという、美形の女性店員さんがいる。細身小顔、いわゆるモデル体型で、長い髪を明るく染めている。なによりの特徴は滑舌の良さだ。一音々々がくっきり明快で、語尾もしっかりしている。細身の人は、口の中にも余分な肉がないのだろうと、思わせる感じだ。
 「たいした滑舌だけど、あなた女優さんかアナウンサーさんの、ご経験者ですか?」
 「えゝっ、けっこう噛んでますよぉ」これも一蹴されてしまった。

 お若いかたの年齢に見当がつかなくなって久しいが、職業や暮しぶりについての勘も、とんと働かなくなった。文学修業の門弟たちには、物語をこねくり回そうとするな、まず人間を観察しろ、などと指示してきたのに、まったく噴飯の極みだ。

 昭和文学の局面を展開させてきた有力作家たちが、芥川賞選考委員を辞任するさいの挨拶に、「最近の小説が解らなくなった」と判で捺したようにおっしゃったのは周知のとおり。じつは解らなくなったのではなく、つまらなくなったのだろうとは、かねがね想像しているところだ。
 もとより現代作家が非力だというようなことではない。やゝ注意深く考えてみると、因果や所以や心理の辻褄の合いかた・食い違いかたが、時代とともに変化しているのかと思う。

 長身・長髪・低音・内面的→ロックンローラー
 細身・美形・小顔・滑舌→女優
 この紋切り型判断が時代に合わず、人間観察にも何にもなっていないことは当然として、問題はさらにその奥だ。コンビニでアルバイトしている若者には、ほかにやりたいことがあるに相違なく、つまり志を成就するための修業もしくは辛抱の期間を過しているに違いないという先入観が、実情から大きくズレている。
 さしもの大作家先生がたですら、かくかくの生立ち・環境にある登場人物が、しかじかの局面に遭遇すれば、こういう心理が働くはずという辻褄の筋道が、辿れなくなってしまわれたのではなかろうか。予感も想像も、当らなくなってしまわれたのではなかろうか。

 ファミマのある商店街のもっと先に、焼鳥居酒屋「博多屋」があって、ある晩カウンターの一番端っこで独酌に及んでいた。ホール中央の大テーブルに、心安げなふた家族で食事する六七人連れあがあった。独酌者には周囲になど関心はないから、気にも留めずにいたが、ふいに聴き憶えある声が混じった気がして、煙草に火を点けるついでに振返ってみた。
 鶴中さんが、脇の幼稚園児ほどの齢の坊やに、何ごとか諭しながらスプーンで食事させている。へぇ、彼女、お母さんだったんだ。
 昭和のやゝ下品な男台詞が、頭に浮かんだ。
 「子どもが子ども、産んじゃったんだな」
 なんとまあ、お若いお母さんだことと、誉め言葉ではあるのだけれど、ただ今ではセクハラとかなんとか、云われかねない。その時もそれ以後も、むろん口に出してはいない。