一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

月謝

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早稲田系御大そろい踏み。丹羽文雄浅見淵尾崎一雄

 絢爛豪華な兄潤一郎と、地味な私小説作家の弟精二。谷崎兄弟は外見も作風も対照的だ。父方と母方、受継いだ血筋の違いか。それとも稀にあるという、兄弟なればこその反発的対照かと、それまでは考えられてきていた。
 さにあらず、兄弟生育期の家庭内の空気の相違によると、視抜いて指摘したのは、浅見淵(あさみふかし)だった。潤一郎幼少期、家業は隆盛。日本橋蛎殻町の大通りに面した店には使用人も賑やかで、店前にはのべつ荷車が着いたり出ていったりしていた。
 が、祖父他界を潮目に家産傾く。精二幼少期には裏路地へと引越して、使用人もろくにない、暗い小店となっていた。家内の空気がガラリと変っていたのだ。

 作風・作柄と、作者の実生活との関連(または無関連)を深読みする能力には定評あった、文芸批評家の平野謙がこの指摘にたいそう感服し、「こういう読みにかけては、我が赤門は早稲田に一歩を譲る」と花を付けた。さすがの平野探偵も、舌を巻いたのだったか。
 申すまでもなく平野は東大出身、浅見は早稲田出身である。

 浅見淵が残した仕事には、小説も作家論もあるが、なんと云っても人物素描や回想録といった、文壇史と区分される諸篇が、飛び抜けて傑作だ。『昭和文壇側面史』『燈火頬杖』は名著と申してよい。文学への愛、その世界に生きる者たちへの興味が、ひととおりではない。しかも視点に洒脱さがある。書名のごとく「側面史」であって、正面史でないところが、独壇場だ。

 その『側面史』の一端。さんざっぱら文士たちの横顔を縦横に紹介した揚句に、「新宿のハモニカ横丁」「新宿マダム列伝」などという章がある。むろん酒場を舞台に繰広げられた文士たちの武勇伝を紹介しているのだが、ふいにこんな一節に出くわす。
 ――女性ひとりの身で新宿で十年酒場稼業を持ち耐えたならば、どんな高利貸でも無担保で大金を融通するといわれている。これに反して、男性の場合はそれからが危い~

 未成年がたのために、野暮を承知で、屋上屋を架しておこう。
 好いたらしい男も魔の手も含めて、男たちからの誘惑に毎日晒される女ひとり商売。そのことごとくを捌き、いなして、しかも気を逸らさせることもなく十年、店を保たせてきた女の根性と身持ちは、信用するに足る。金貸しにしてみれば、まず貸し倒れの心配は無用だ。
 けれどママさんじゃなくマスターの場合、男ってもんは、理想に燃えて、もしくは意地を張りとおして、十年辛抱して、やれやれこゝまで来ればとひと安堵という気が起きたころ、とかく間違いを犯す。

 念を押しておくが、これは文芸批評の一節である。
 どれだけの月謝を注ぎ込めば、こういう文章を書けるようになるもんだか。