一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

読み屋稼業

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 久しぶりに、読み屋の仕事が舞込んできた。
 今回は、ある文芸雑誌が無名新人に出している賞への応募作の一次選考、つまり下読み・粗選りである。賞の基準に鑑みて、箸にも棒にも掛らぬ作品を振い落して、上の選考に揚げる作品を限定する仕事だ。原稿用紙百枚以内という条件で応募された作品群を、これからしばらくの日数かけて、読みに読む作業となる。

 世間で無名の文学屋でいると、こういう仕事が回ってくることもある。有名選考委員に、応募全作品をお読みいただくわけにもゆかない。そこで、陰の「読み屋」たちの登場。世間に面が割れていない。それでいて、有名先生がたほどでないまでも、そこそこ腕が立つ。なによりもギャラが安い。

 テレビ時代劇に「必殺」というのがあった。日ごろは裏長屋にあって、櫛カンザシを削ったり、三味線の音を改めたり、それぞれ手職人。編集部の女性社員、もとい伝令の銀杏返しがふいに覗いて、「八丁堀が呼んでるよ」「あいよ、今度はなんでえ」てなことになって、小判がピシリピシリと並ぶ。
 「大江戸捜査網」というのもあった。隠密同心心得の条。武門の儀、あくまで陰にて。死してしかばね拾うものなし。
 まさしく、あれだ。こんな年寄りに、めったに仕事は来なくなったが、元気な年頃には、これを貴重な現金収入源としていた。業界の片付け屋たち、ハイエナ集団などと、陰口されていたらしい。

 こんな稼業にも、それぞれ心掛けも技術もある。必殺仕事人だって一人ひとり、武器が異なるじゃないか。
 まず、主催者が設定した授賞方針を把握する。求める受賞作の想定水準を承知する。その求めを満たす作品や、それを裏切るほどの魅力作(またはその芽)を、どこに着眼して探すかを思い描く。最低限の心掛けだ。
 技術としては、自分の公平さをいかに保持するかという問題が大きい。たくさん読むうちに、自分の眼や感受性が馴れっこになってしまうことを、どう抑止するかの問題。
 長年の勘で、判定してしまうという同業者もある。初見一読したさいの、自分の感動・印象を信じるという立場だ。解らぬではないが、私はもう少し、自分を疑っている。

 今回は、各応募作品読了直後に「技・想・耳」の三項目について、〇△✕を付していって、全作読了後に、総合点の高い作を改めて比較することにした。
 「技」は日本語力。語彙も文法も表現も含めて。「想」は人物像の彫琢、主題の掘下げ、技法の工夫、いわゆる思索やアイデアに関わる部分。
 我が判定の特色は「耳」。言葉にも楽器と同様、鳴りの良い悪いがある。また読者の耳にどう聞えるかにとどまらず、その音が作者自身の耳に正確に聞えているかの問題もある。怪訝に思われるかたもおありかもしれぬが、書き手に将来があるかどうかを診分ける、大切なポイントである。

 という次第で、今月一杯は缶詰生活。当ブログも、ユーチューブもピンチ。などと考えていたところへ、なんという巡り合せか、ユーチューブ・チャンネルのディレクター氏が、新録音のほかにアーカイブと称して、私の昔のお喋り音源をアップし始めてくださった。
 開口一番は黒澤明映画『七人の侍』。なんとなんと噺の枕で、今日と同じ「読み屋」のなりわいについて、喋っている。まったく記憶になかった。心底呆れ果てた。進歩がないにも程がある。いや、これが耄碌による退歩というものか。