一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

さて問題は

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 お前ら、誰よぉ。こういうのが、どっからかふいにやって来ちゃうから、草むしりの手が、鈍るんだよなぁ。
 それに、リコリス彼岸花)だったら、ふつう赤でしょうに。選りにも選って……。

 応募規定は「未発表の小説か評論」となっている。まず普通は、小説(らしきもの)がやって来る。そこへ評論(らしきもの)が一篇、顔を見せた。しかも説くところ、悪くはない。
 まず論の意図を表明する前説がある。本文随所に註ナンバーが振られ、末尾に一括して出典が明示される。さらにその後に、本論執筆に当って参照した文献目録が付される。いずれどこかで訓練を受けたに違いない、画に描いたごとくの、論文形式だ。
 筆者の個人情報は、私には伏されているが、間違いなく若手の研究者か大学院生。ごく素性のいゝ文学部であれば、学部卒業論文でも、このあたりまで行けるかもしれない、という出来栄えで、有望ではある。が選考としては、これを採りにくい。

 学術研究論文と文芸評論とは、別のものだ。つまりこの筆者の料簡が方向違い。もしくは発表舞台の選択を誤っている。
 研究論文というものは、徹底的に「説」に責任をもたねばならない。読者のどなたが同じ問題を考えても、正しい筋道で考える限り、結論はこうなるほかありえないと、納得させるのが理想だ。そのために、信用できる先人業績があれば、自分はその業績に接ぎ木してさらに先を考えたと明らかにすべく、遺漏なきよう出典を明示する。文献参照の痕跡も詳らかにしておく。

 批評・文芸評論というものは、徹底的に「筆者自身」に責任をもたねばならない。こう考えた自分というものを表現する、文学表現の一分野である。極端に申せば、学術的判定においては公平を欠く説であっても、この筆者であればこういう「説」となるほかあるまいと、読者に納得させるのが理想だ。
 註だの参考文献目録などは、ほとんどの場合邪魔である。本文中に溶かし込んで、先行業績その他は読者が読みながら想像できるように、書かねばならない。文献明示がないと、読者の理解を妨げる場合のみ例外的に、泣く泣く註釈を付ける。

 学術研究論文は、先賢の説を一歩でも半歩でも先へ進めて、誤りないバトンを後進へ繋いでゆく使命を帯びている。いっぽう文芸批評は、こう読まずにはいられぬ人間もあることを、読者に訴える、のっぴきならぬ表現だ。いずれも楽な仕事とは申しがたく、困難は甲乙つけがたい。

 この弁えがないがしろにされるから、「批評なんて、他人のフンドシで相撲をとってるだけでしょう」なんぞという無明の俗説が横行する。反動で「批評は創造だ」なんぞと、必要以上に力み返った青書生の弁舌も出てくる。「批評は創造」説をことさらに強弁する輩の大半は、自己誇示に夢中で、批評対象への敬意を失った手前勝手説に陥っている場合が多い。
 こう云い換えようか。文芸批評もまた、小説・戯曲・詩その他の文学分野と同様に、やゝ高尚な(そしてマイナーな)娯楽作品であると。申すまでもなく、学術のほうは娯楽ではない。

 さて問題は、リコリスである。通路をさっぱりさせねばならぬから、他の草々もろとも引っこ抜いてしまおうか。それともこいつらだけ依怙贔屓して目こぼしするか。はたまた地中に球根を残す多年草と聴くから、今三か所に一株ずつ居るのを一か所に集めて、来年再生するかを看守るか。
 この小忙しい時期に、頭使わせるんじゃねえよっ。