一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

五キロ

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 従兄から、新米が届いた。地元仕様の、生産者の顔が見える米である。ありがたい。父方母方とも、親戚の半分は新潟県民だから、拙宅は東京に住みながら、米を買った経験がほとんどない。

 私と同齢の彼は青山学院大学の文学部史学科卒。民俗学文化人類学に関心あって、内外のフィールドワークにも盛んに歩いた。ポナペ島での写真を引伸ばしてくれたパネルが、今も私の手許にある。
 人懐こい社交的性格で、恩師からいたく可愛がられた。ご研究室の常駐留守居役のような存在だった。盆暮れだ引越しだといっては仲間と連立って恩師宅へ押しかけ、力仕事や奥様の手伝いをするのが常だった。
 恩師ご他界後は、年中行事のごとく命日の墓参りに、同じ仲間が参集した。後片づけだ模様替えだ、またなんのかんのと理由を作っては、奥様を囲んだ。

 在学中に知合った彼女の、アメリカ留学からの帰国を待ちかねたように結婚。郷里へ帰った。東京山の手のお嬢さまで、しかもかなり意識の高い学歴女子が、よくもまあ彼について、雪深い越後まで行ってくれたものと、今でも思う。
 上越新幹線はおろか、関越自動車道すらなかった時代である。

 彼は保険の勧誘や代理業務に就いた。人と人とを結び付け、情報を伝達する。彼には天職ともいえる仕事だった。
 夫人は二人の息子を大きくした後、地元大学で非常勤講師をしたり、コミュニティー活動に尽力したり、それらの経験を活かして、女性問題・地域問題を扱う東京の雑誌に原稿を寄せたりした。

 何を隠そう私は、親戚中では、いずれのご家系にも一人は居る「変なオジサン」である。フーテンの寅さんみたいなものか。親戚付合いも、むろん下手だ。
 そこへゆくと彼は、人間関係に明るい。恩師の墓参りだ、青山学院同窓会の幹事会だ、歴史散歩の会だ、定年後に力を注いでいる防災問題の研修だ講演だといっては、年に数回上京するが、時間を割いて拙宅へも立寄ってくださる。
 そのさいには、親戚一同の近況から地元の喫緊課題まで、あれやこれや教えてくださる。世間知らずの私は、郷里の事情を『新潟日報』からではなく、彼から仕入れているのである。

 逆もまた真で、私の仕事や暮しぶりなど門外のかたに説明申しても、なかなかご理解願えぬことが多いので、たとえ親戚といえども、みずからを開陳することなどめったにない。ところが大きな法事などで、さて前回お会いしたのはいつだったかと、互いに首を傾げ合うような間柄の人とお会いしたさいに、先方が私について意外なことをご存じだったりして、魂消ることがある。おそらくは、彼の仕業だ。

 思うに彼にだって、勝手気ままに、義理を欠き恥をかいて生きてみたかった若き日があったのだろう。が、彼の良識がそれを妨げた。
 ところが従兄弟のなかに一人だけ、強引かつ我がまま独善的に、勝手を押し通してしまった奴がある。得体の知れぬ奴と、親戚中から首を傾げられているが、せめて自分くらいは少々看ていてやろうか。というので、格別のご配慮をくださってきたのだろう。

 この新米五キロ。いささか年月かかった重みがある。
 さて、なにかお礼を申したいがと思いたって、はたと迷ってしまった。東京には名物特産といえるものがあるだろうか。
 昔なら「雷おこし」。なにせ私と同齢だ。歯が欠けたらどうする。和菓子か。過去ご夫妻ともに、甘いもの好きの気配は一度たりとてなかった。拙宅ご来訪の彼は、麦茶は飲んでも、珈琲にも菓子にも手を出さぬくらいだ。では私常用の佃煮屋でなにか。老夫妻には塩分過多だろう。彼は血圧にも肝臓にも、薬を常用しているという。では息子たちになにか。揃いも揃って二人とも、両親が視上げるほど大きいのだ。今さら「お子たちに」も変だろう。

 東京には空がないのではない。人情がないのでも、潤いがないのでもない。老舗の名品はあっても、気取らぬ進物に適した特産品がないのだ。