心愉しまぬとき、時どき思いたって、エリザベッタ・フランキ(ELISABETTA FRANCHI)のショウの動画を観返す。
ヴェルサーチやバルマンのような、突き出すものが鋭い、いわば尖ったショウが好きだが、気分・体調によっては、くたびれる。最先端でなくてもいゝから、上品かつ可憐で、こちらの美意識の保守的側面を女性美にまとめてくれるショウが、ありがたいときもある。フェミニズム論者から叱られそうだが。
エリザベッタ・フランキに注目したのは、2017春夏と2017‐18秋冬のショウの動画を観てからだ。アメリカにもフランスにもありえない、イタリーの美意識を感じた。乱暴に申せば、没落貴族の頽廃と無邪気の美。ランペドゥーサ『山猫』の世界だ。
どんなにもがいたところで、脱け出すことのできぬ壮大な崩壊。下り坂の時代に生れ合せた者の宿命的悲哀。そこにかろうじて咲いた、つかの間のあだ花。日本人が末法思想だ無常観だと云い募ってきた美意識が、イタリアー人だとこうなるのか。むろん私一個の勝手な思い込み。幻想である。
その後、毎年主題は換るが、一貫して「イタリー」が追求されてきている。2018春夏では、舞台奥の全面スクリーンに熟れ実った麦畑。吹き来る風に穂を揺らしている。ちょうちん袖の普段着めいた味わいを残す服に、これでもかとばかりにつばの広い帽子。食糧生産の現場に近い田舎娘が洗練されてゆくと、イタリーではこうなるか、というイメージ。
2020春夏では、スクリーンは全面海上で、中央は盛んに泡立つ航跡。客席に向って全速航行するリゾート船の甲板が、ランウェイになっているという見立てだった。地中海で遊ぶイタリー女性というわけだ。
ところで昨年今年と、ファッション動画に大異変が生じた。申すまでもなく、疫病禍によるショウの中止だ。それでも各ブランドとも、コレクション発表も宣伝もしなければならない。動画は挙げられる。が、ショウの中継という体裁ではない。ロケ地での架空ショウ、すなわちイメージ動画である。
2021‐22秋冬では、牧場(乗馬倶楽部?)を借り切ってのロケで、普段であれば馬たちが足馴らしをしているであろう、砂混りの土の上を、モデルたちが歩いた。(写真)
すでに2019‐20秋冬のショウで、乗馬服のモチーフは登場していた。無駄を削ぎ落したスポーティーなシルエットに、大きな乗馬キャップが特徴的だった。それを拡大したわけだ。
窮余の一策ではあったが、瓢箪から駒。このほうがよろしいではないかとの意見も出てきそうだ。
客席都合を勘案する必要はなく、ロケ地を自由に選べる。カメラアングルも照明プランも、限定を受けない。編集による可能性の幅も格段に広い。だいいち従来のショウ体裁と云ったって、ブランドによってはあざとく仕掛け過ぎたショウもあり、関係者や定連にエキストラを加えた、ヤラセのショウもあったではないか。
たしかに、さようではあるのだが……。
少々異なる感想を抱いている。観客のないランウェイを歩くモデルたちの、気合いが違う。カメラを意識し、演出家の要請に目一杯応えようとする、プロのモデルたちではあるものの、やはり「ノリ」が違う。
そのことと関連あるが、空気感が異なる。へーぇ、空気って何色? どんな重さ? どんな手触り? と突込まれそうだが、こゝは異なること歴然、と独断しておくほかない。
もとより、ろくに知りもしない服飾の世界について、なにか申そうなどと、だいそれたことを思ったのではなかった。この「空気感」について申そうと、書き始めたのだったが、今日は枕だけで了る。