一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

空気感

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エリザベッタ・フランキ2022春夏 フィナーレ

 乗馬倶楽部のあと、最新のロケ地は、大理石の石切場採石場)だ。イタリー本土にこういう所があるのだろうか。それとも地中海上のどこかの島ででもあろうか。
 主題は、ヴァカンスでやって来た富裕階級のリゾート着と、遺跡の発掘調査にでもやって来た探検隊服。それに昔から島周辺に居た人魚たちに足が生えたというような、少々メルヘン的なものの三系統だ。

 日本でも、何百年間も切出し続けてきた大谷石石切場の跡が、野外劇の舞台として注目された時期があった。眼もくらむほどに切立った天然の石壁に四方を囲まれた、谷底のような空間からは、これが実在する風景だとは信じがたいほどに超現実的な印象を受けたものだ。気温の変化もさほどないほどの深さで、声の反響も独特だった。
 多くの演劇人やパフォーマーたちが、そこで興行を催したものだった。映画や宣伝映像のロケ地としても、定番のように登場した。近年の演劇・芸能事情はかいもく知らぬが、今も利用されているのだろうか。

 どぎつさの微塵もない、温もりある中間色がエリザベッタ・フランキの特色だが、硬く無機質な感じの石切り場とのきわだった対照が、例年のショウとは違う効果を発揮した。それはそれで結構なんだが……。
 大理石ならではの、模様や色調の変化があるとはいえ、石は石だ。しかも観客はなく、モデル以外の人影はない。構図も色もたいそう美しくはあるが、気温も陽射しも感じられず、空気感が乏しい。そのために、モデルたちが、十分に呼吸していない。そんな馬鹿な。しかし、そう見えてしまうのである。

 今、とある新人文学賞の、最終選考に入ったところだ。一次選考(粗選り)段階では、授賞水準に達していない作品はあとさき考えることなく刎ねてゆけばよかった。いわば粗捜しで事足りた。消去法でもゆける。
 一次二次を通ってきた最終候補作の比較検討となると、少々様相が違ってくる。いずれも何かしらの取柄がある作品たちだ。中から出来栄えと将来性とを、視定めねばならない。賞の理念、主催者の授賞意図も汲まなければならない。

 選考委員たちのあいだで、意見が割れることもある。興味は惹かれるものの傷だらけな作品もあれば、手抜かりはないものの面白味に欠ける作品もある。むしろ全員一致ですんなり決ることのほうが稀だ。他委員のご意見に耳を傾け、自分が推した候補作の推薦理由をもって、他委員を説得しなければならない。
 委員の中では私が最年長だから、いきおい、どの候補作にもっとも現代の香りがするかについては他委員の弁に耳を傾け、過去の作家からどう学んだか、文学史にてらして達成度はどの程度か、などの観点が、私に振られた役目となる。

 漫画隆盛から半生記。アニメやライトノヴェルやゲームソフトから筋(ストーリイ)を学んできた作者たちによる作品群を判定するに、「空気感」を表現できているかと問題提起することがあるのだが、これが若い作者はおろか、他委員にすら通じない場合あって閉口する。
 文芸創作とは、お噺をこしらえることではない。人間像とその人が暮す空間とを、描き出すことだ。筋の辻褄を合せて、それに色や声を指定すれば、物語が完成するというものではない。普通は言葉に云い表せない、重みや匂いや肌触りや、間合いや奥行や、つまりは作品の空間に充満している空気を、描き出してこそ創作である。

 「とりたてて特色もない私鉄沿線の駅」だの「よくある普通の家庭」だのと書いて、平然としている作者もある。そんな駅、そんな家庭など、この世にはない。気づかぬ人には、何十年待ったところで、文学は無理である。
 樋口一葉、國木田獨歩、志賀直哉菊池寛梶井基次郎。短篇名手と云われた人はことごとく、ひと筆書きのようにわずかな描写によって、空気感を表現しえた達人だ。モーパッサンチェーホフモーム。皆さようだ。

 そんなこと私にとっては当りまえ以前のことだったのだが、昨今あながち、当りまえでもないらしいので面食らう。
 かといって、他人さまを説得することには、もう飽きた。面倒臭い。じつは最終選考会までの日々、少々気が重いのである。