一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

文句なし

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 肩の荷をひとつ、降せた一日。
 現職の若手教員と、ようやく面談できた。前々から約しながらも、オンライン授業につき登校不可能状態が続き、叶わなかったのだ。面談といっても、私はもはや部外者につき、おいそれと入構することはできない。珈琲館で待合せた。
 サークルの後事を託す。とはいっても、彼女は今が昇り流。仕事し盛りの小説家で、多忙を極める最中に違いなく、新たなご負担をお掛けするには忍びない。私自身も、脚が動く限りは、学外の一会員として、側面から支援するつもりだから、ま、当面は名義上の顧問役を依頼したわけだ。近未来事態を想定しての、若干の作戦も打合わせた。

 ただ今現在の、文芸出版の空気や、若手小説家たちの模様について、教えてもらう。これからの十年、どうなってゆくかについても、訊ねた。
 昔、駆出し編集部員として作家訪問すると、「君ぃ、これからの十年、どうなると思うね?」と、よく訊かれたものだった。自分が訊く番になった。

 多忙な相手を暇人がお引止めしてもなるまい。今半の詰合せを持ち帰っていただく。その程度で謝意達するものではないが、せめてもの気持、というやつだ。
 「北の国から」で五郎さんが、息子の不始末を先方の親に詫びるべく上京したさい、重そうなカボチャをいくつも提げてきたっけ。カボチャかよぉ、と嗤えるのは、貧乏したことのない東京者ばかり。五郎さんにとっては、可能な限り精一杯の気持だった。
 ま、今半の詰合せにカボチャは入っていないけれども。

 いくぶん気が軽くなって、八百屋でもビッグエーでも、一品二品余計に買ってしまった。しかたない、夜は惣菜作りである。
 と、ふいに揺れが来た。オヤッ来るのかな、と思ったら、ユサユサッと来た。思えば、東日本のときも、ちょうど台所にいた。あの時は、ドカンッのあとグラグラッと来て、バッシャーンだった。あいにく開けっ放しだった食器棚から、ものの本にあるごとく、食器類が水平に飛出し、放物線を描いて床に散ってゆくのを、この眼に視た。
 今回も大きくはあったが、食器棚や冷蔵庫がじりじりと場所移動するような気配はないから、やがて収まると思えた。

 ラジオを点ける。不思議と、こういう時はNHKになる。夜通し、情報の上書き繰返しとなってゆくことだろう。
 こうなりゃ長期戦だ。肚を据えて、改めてガスレンジに着火し、一番搾りのプルを引く。まずは出汁作り。同時にヒジキを水で戻す。出汁がひと煮立ちしたら鍋を水桶に浮かせて冷ます間に、餃子の焼け加減を横目に視ながら、野菜の皮むき。餃子が焼けたら、下茹で用の大鍋を火に掛ける。なにせ老朽レンジにつき、活きてる火口は一口しかない。今食うものと、保存惣菜の仕込みとを、効率よく組合わせねばならない。

 一番搾りはひと缶で十分。今日の気分では、あとは梅酒ロック。
 闘い二時間半。カボチャ煮、ヒジキ大豆、煮もの(じゃが芋・人参・油揚げ・竹輪)の三品完了。これに玉子・納豆・梅干などレギュラー陣が常駐して、あり合せの野菜や若布に酢味噌か三杯酢となるから、向う四五日ぶんの食事の骨格が決った。

 地震被害に遭われたかたは、なんともお気の毒だったが、私にとっては佳き日だった。肩の荷を、少し降した。こうして少しずつ、降してゆければ文句なしだ。