一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

憶えて

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『道場破り』(松竹、1964)より、上田吉ニ郎。

 喜劇役者として実力は認められながらも、脇役に徹してきた長門勇の、初主演作品。腰の低いおとぼけキャラに見えて、じつは神道無双流極意皆伝の腕前。妻の妙(たえ)と次なる仕官の道を求めて、浪々の旅をしている。松竹映画『道場破り』の噺である。
 共演は、こんなにカッコ佳かったっけ丹波哲郎に、まぁ可愛らしい倍賞千恵子岩下志麻。脇役陣凄くて、宮口精二殿山泰司、高橋とよ。さらには上田吉ニ郎、浜村純に極めつけは左卜全。後年の眼で振返れば、とんでもない豪華キャストだ。

 主人公が脱藩して浪々の身となったいきさつはと申せば、妙の美貌に眼をつけた藩主が、嫌がる彼女を権力づくで側室にしようとするのを、危機一髪主人公が救い出して、そのまま逐電。追手の掛る身の上となった。今は石川八右衛門(じつは三沢伊兵衛)と名乗っている。
 長雨はようやくあがったものの、河の水嵩が増して渡れない。ゴロツキまがいの河原人足たちは、こゝぞとばかり法外な酒手を吹っかけてくる。困った貧しき旅人たち、行商人や旅芸人、筮竹使い(占い師)や夜鷹まで、最安値の木賃宿にと吹溜る。
 観るからに極貧浪人のなりをした八右衛門も、逗留客の一人だ。

 八右衛門と妙はこの二年間の旅の空で夫婦となっていた。八右衛門はなんとしてでも妙を追手の届かぬ地にまで伴わねばならない。だが路銀がない。
 加えて、河停めに滅入り気が立った宿泊客たちは、ちょいとした言葉にも苛立ち、なにかといっては口諍いから取っ組合いの喧嘩にまでなる。
 見過しにはできぬ。背に腹は換えられず、妙には内緒で道場破りをし、筋の通った武士にはあるまじき所業とされた賭け試合にも出場した。日ごろ妙からは、いかに卑賎の境涯に身をやつそうとも、賭け試合にだけは手を出してくれるなと、釘を刺されていたにもかゝわらず。
 八右衛門の手配で、場違いに豪勢な酒肴が届く。木賃宿の面々にとっては、まさしく盆と正月がいっぺんに。唄が出る。踊りが出る。語りが出る。

 とある機会に、八右衛門の剣法と人柄を知った、当地の殿様が、当藩の剣術指南役として仕官せぬかと、打診してくる。ついに白羽の矢が立った。今度の殿様は大丈夫そうだと、八右衛門は歓ぶ。が、妙は心配だ。この夫にはいつも、落ち度はない。たゞ性格が素直過ぎ、思いやりがあり過ぎるのだ。それが雇用主を苛立たせる。毎回それで、機会をふいにしてきた。
 果せるかな今回も、九分九厘決っていた仕官が、最終段階に差込まれた横槍でオジャンになった。賭け試合に出場した過去が、拭えぬ瑕だという。

 路銀(手切れ金)が置かれると、八右衛門は当然辞退する。それまで後ろに控えていた妙が出て、見事に座り、丁寧に挨拶し、云う。
 ――ありがたく、頂戴いたします。賭け試合が悪いとは、誰しも存じております。私も今日まで、やめるようにと申してまいりました。ですが、やむにやまれぬ場合もあるのでございます。あなた、これからは申しません。どうしてもというときには、賭け試合でもなんでも、お考えのまゝになさいませ。

 富裕階級の杓子定規を痛烈に批判して、物語は了る……のだが、はてな、この噺、どこかで観たが?
 黒澤明の遺作として残された未完シナリオを、助監督が完成させてメガホンと取った、『雨あがる』だ。ロールを観返すと、ともに原作は山本周五郎『雨あがる』とある。長門勇岩下志麻の夫妻を、寺尾聡と宮崎美子の夫妻で、すでに観ていたのだった。
 細部のこしらえの違いを観ながら、あれこれ想像するには、まことにふさわしい教材といえる。
 しかも『道場破り』の脚本家は、なんと小國英雄だ。橋本忍と黒澤とそしてこの人、『生きる』『七人の侍』の共同脚本家だった人である。こゝにもなにやら、物語がありそうな関係だ。

 ところで、以上のようなことを申したかったわけでは、じつはない。上田吉ニ郎で思い出したことがあったのだ。悪者一家の親分を演じたら日本一の役者とは、どなたもご承知だろう。弱い者をいじめているところへ通りかゝった二枚目から、やっつけられてしまう。
 「おっ、お~、憶えていやがれぇ」がお決りの捨て台詞だ。
 しかし彼にとって事態は、誰にも憶えておいて欲しくない状況ではあるまいか。とんだ恥かき、いわば黒歴史。自分自身ですら、できれば忘れてしまいたい状況なのではあるまいか。考えてみれば、奇妙な捨て台詞だ。いつから始まったのだろうか?

 類似の例をもうひとつ。時代劇でも現代青春ものでもお眼にかゝる台詞だ。
 「けっして忘れませんから」というのがある。袖ふり合うも多生の縁とばかりに、生きかたも立場も異なる同士が、ほんのいっとき肝胆あい照したのちに、本来の生活圏へと別れてゆき、二度とふたたび逄うこともあるまいという場合に、使われたりする。
 正気だろうか。忘れるのが普通だし、健康的だろう。なぜか判らぬが記憶に残るという場合も、もちろんある。理由は知れぬが、生理のメカニズムの自然なのだろう。それはよろしいとして、意図的に(意識的に)けっして忘れません、などというのは、ずいぶん無理をした、嘘臭い云い草だと思うが、どうであろうか。

 「憶えていやがれ」と「忘れませんから」を云いたかっただけなのに、映画を一本、思い出してしまった。いやはや、役に立たないことを、憶えているものである。