一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

感想の発明

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 梅干の種とは、いつ別れたらよいのだろうか。口中でさんざん舐めまわして、ほとんど味がしなくなったところで、これで梅も成仏できようと、掌に出す。ふとした好奇心から、ゴミ袋へ放らずに、醤油皿に取って、俎板の隅に置いておく。陰干し状態だ。
 次の食事のさいに、口に入れてみる。まだ梅の味がする。いったいいつ、別れたらよいのだろうか。

 この事実は、私の発見ではない。この感想は、私の発明ではない。正岡子規が日記に書き残している。やるなぁ、さすが子規、俺も同じことを考えてる、などと己惚れてはならない。むしろ、ヤラレタァと、己の非力を恥入らねばならぬところだ。
 小説であれ批評であれ、この筆者のヤツめ、俺と同じことを考えていやがる、なんぞという感想を抱く読者に、同じ出来栄えの文章が書けたためしはない。今俺が、頭の中で考えていることを、書き表しでもしようものなら、天地引っくり返るぜ、なんぞとうそぶくお人に、そういう文章が書けたためしはない。

 云われてみればもっともだ、自分にも憶えがあると、多くの読者から同感される感覚を、最初にさりげなく書くから創作なのであり、そういう細部に眼を留めるから才能なのである。
 梶井基次郎檸檬爆弾の噺は、あまりに有名だ。長らく病気がちで、三十歳そこそこで早死にしてしまったから、大作力作はないが、残された短篇のなかに、才能の片鱗がキラキラ輝いているために、今も愛読者が絶えない。檸檬爆弾だけではないのだ。

 膝の上でくつろぐ猫を、主人公は日がな撫でまわして過す。改めて考えてみると、猫の耳というものは、じつに不思議だ。外側は細かい毛が密生し、内側は艶を帯びてツルンとしている。少々抓ってみても、引っぱってみても痛くないのか、平気な顔をしている。両耳を掴んで宙に吊下げてみる。噛んでみる。はゝぁ、これ以上は痛いとみえる。
 耳を陽にかざしてみると、光が透けて見える。主人公はこの耳を、駅員さんの切符切りでパチンとやってみたい気がしてならない。

 『愛撫』という短篇だが、読者はこゝで、アッと胸を衝かれる。猫の耳を切符切りでパチン! まさにそういう感じだと、誰しもが一度は感じる。そんなこと実行するわけにもゆかないから、一瞬かすかに感じただけで即座に通り過ぎていってしまう感覚だ。それがこゝに書き留められてある。
(切符切り、または穴あけを知らぬ人たちの時代となってしまったことは、作者の責任ではない。)

 『櫻の樹の下には』の例は、わりに有名かもしれない。花見どきの爛漫たる桜を眺めて、あの樹の根元の土中には人の死体が埋っているに違いないと直感する噺だ。人智及ぶべくもない見事さ・美しさに言葉を失った気持を、あえて言葉に云い表してしまった表現だ。

 猫の耳にしろ、桜の根元にしろ、そういうことは俺も感じたと、多くの読者から思われようが、書き残したのは梶井基次郎たゞ一人である。