一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

どっかの

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文藝春秋 芥川賞直木賞150回全記録』より無断で切取らせていただきました。

 山田詠美さんが『ベッドタイムアイズ』でデビューしてきたとき、おっ、佳い作家が出てきたな、と思った。
 若い女性作家が、デビュー前に女王様やってたとか、ボーイフレンドが黒人男性だとか、刺激的な情報にまぶされて、筋違いの話題性に世間が沸いた。
 まぁそういう話題も詰らなくはないが、本質的にはどうでもよろしい。

 主人公は横須賀でクラブ歌手をしている娘さんだ。美形でモテるが、もうひとつ自分というものがはっきりしない。大事なことはなんでも、信頼するストリッパーの姐さんに決めてもらったりしている。
 男なんぞ次から次へと現れるが、力を抜いて自分をスカスカにしてさえいれば、しばらく藻掻いたあとはすり抜けていってしまう。心も躰も、汚れたり疵付いたりなどしやしない。

 そんなある時、米軍の黒人兵と親しくなる。基地から脱走した不良兵士で、アルコールやドラッグの常習ばかりか、軍の機密文書を持出してきているらしい。ヤバイ奴だよ、アイツだけはやめときなと、姐さんも仲間たちも忠告してくれる。
 髪を引っつかまれて部屋じゅうを引摺りまわされたり、暴力もひどい。けれど、どういうわけだか、これまでの男たちとは違う。なぜか別れられない。トイレの水をいくら流しても、流れていってくれない。
 ――これまで私は、記憶喪失の天才だった。でもこの男だけは、お腹に留まっていて、流れていってくれない。私に初めて、所有物ができたのだ。

 一篇の結末は措くとして、この「所有物」がキーワードだ。避けられぬ、のっぴきならぬ実人生に、彼女は生れて初めて出くわしたのだ。
 現代的な意匠を凝らしながら、正々堂々またなんという古典的主題に、真正面から挑んだものか。この作家は「古風」と称してもよろしいほど、まともな作家だ。
 それが私の感想だった。同意見の書評は、新聞雑誌どこにもなかった。

 仲間との同人雑誌に、その趣旨を書いた。寄せられた感想は、案の定と云えるものばかりだった。山田詠美を採りあげて、黒人についての指摘がないとは信じられないとか、超現代的作品を「古風」とは、甚だしく見当違いのナンセンスだとか。風評に踊らされた批判ばかりが寄せられた。

 ちっぽけな同人雑誌ではあるが、もちろん山田詠美さんにもお送りした。先方は昇り龍の売れっ子で、多忙を極めているに相違ない。まず、開封されることなく屑籠行きだろう。それでも一応はお届けする。古くからの、物書きの仁義である。存命のかたを扱った場合には、どなたにもそうしてきた。木下順二さんにも、山室静さんにも、堀田善衞さんにも、田中小実昌さんにも。

 数か月後、『鳩よ!』という詩の雑誌に、山田詠美さんと田中康夫さんの対談が掲載された。お若くして有名になられたお二人の、まぁ成功体験雑談だ。
 ――山田 こないだ、どっかの知らないオジサンがね、私のこと書いてたのよ。それがあんがい当ってて、笑っちゃったぁ。
 ――田中 そういう人って意外に、いたりするんだよねぇ。

 やれやれ「どっかの知らないオジサン」か。あなたがたよりだいぶ前から、やってきちゃいるんだが、なにせ……。しかしまぁ、おっしゃるオジサンが私のことかどうかまでは、確かめる術がなかった。
 昨日「感想の発明」などと申してしまったばかりに、こんなことも思い出した。