一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

立ち姿

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プログラムとチケット半券(1966)

 木下順二作『オットーと呼ばれる日本人』宇野重吉演出、劇団民藝公演。一九六六年九月の再演だ。新劇史に残る名作名演との噂には接していた。が、初演は一九六二年。私は世代的に、間に合っていない。
 いつか再演をとは、劇団の腹づもりにも入っていたそうだが、思いのほか早く再演の機会がやってきた。木下順二の書下ろし新作公演を前宣伝していたのだが、台本がどうしても間に合わない。急遽『オットー』再演に切替えられた。

 日夜苦吟に苦吟を重ねても、作者がどうしても幕切れを書けない。なるほど、芝居の世界にはそういうこともあるのかと、高校二年生は初めて知った。作者の遅筆苦吟のおかげで、私は名作に接する機会を得たことになる。このとき流れた新作が、後にやはり劇団民藝によって初演されることになる『白い夜の宴』となった。

 物語はゾルゲ事件。反ファシズム運動に暗躍するシンジケートによる、国際的スパイ事件だ。ジョンスン(リヒャルト・ゾルゲ)と連絡をとる、暗号名オットー(尾崎秀実おざきほつみ)が主人公。「朝日新聞」記者から上って、近衛文麿内閣のフトコロガタナだった男だ。
 コミンテルン(国際共産党)からの指令で動くジョンスンと、日本の軍国主義伸張を阻みたいオットーとは、今ドイツと日本がソ連を挟み撃ちにするのは好ましくないとの情勢判断で一致。軍国日本の眼を、ソ連への侵攻から南方へと転じさせるべく画策した。

 ジョンスンは、世界中のファシズム国家を崩壊させなければならぬと考える。オットーは、国家転覆が目的ではなく、日本と日本国民の安寧を護りたいがための軍国主義打倒だと考えている。二人のあいだに生じる、共鳴と背反。客席に腰掛けながらも、思わず背筋を伸ばして身を乗出さずにはいられぬ、緊張感が持続する舞台だった。
 そうか、真意と行動とは別物なのか。時勢を東へ導かんがために、今、自分は西へと走るということもあるのか。後年想えば、そら恐ろしい大人社会学を垣間視たわけだ。

 この時受けた打撃は、大学生になってから、林達夫だの花田清輝だの、一読では摑みにくい文章を読み込むさいの、有力な尺度となってくれた。論語荻生徂徠の注釈書を読むにも、いや徒然草を読むのにだって役に立った。
 そして愛国心とは必ずしも視たままではない。こよなくこの国と国びととを慕わしく想うがゆえに、現にあるこの国を不承認であるという、堀田善衞や武田泰淳の文学を理解するにも役立った。
 大袈裟に申せば、私の読解力の根柢を、たしかに造ってくれたわけである。

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清水将夫(ジョンスン)と滝沢修(オットー)

 細川ちか子さんを初めて観たのも、この舞台だった。なるほど、女優さんとは背筋の正しい、立ち姿の美しい人のことなのだと知った。