一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

あの坂道

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パンフレット(チケット半券付き)14公演

 あの坂道を、もう一度歩くことは、あるのだろうか。
 代々木小劇場と聴いて、あゝアレ懐かしいね、なんぞとおっしゃってくださるかたも、めっきり少なくなったのではないだろうか。演劇集団変身の常打ち小屋だった。
 代々木ゼミナール本校の裏手にあたる下り坂を、突当りまで下って左折した左手。石の門柱を抜けて、個人宅の私道を飛び石伝いに入ってゆくと、木造の小劇場があった。そのお宅の離れだか倉庫だかを借り受けての、手造り劇場と聴いた憶えがある。
 舞台間口およそ三間。演しものによって、舞台も客席も変形するが、平均して客席数六十からせいぜい八十の、ウルトラ小劇場だ。
 一九六六年から六七年にかけて、私は観客として通い詰めた。

 演劇集団変身は、「夕鶴」で有名な山本安英さんらの劇団ぶどうの会がいくつかに分裂解散したとき、より意欲的な芝居を志して集った、若手俳優と演出家の集団だった。後年、独り芝居『土佐源治』を長く続けられることになる坂本長利さんや、ドキュメンタリー・ナレーションのお仕事が記憶に残る伊藤惣一さんらがいらっしゃった。演出陣の中心は竹内敏晴さんだった。

 どんな芝居が可能か、ご自分らに向くレパートリーは何かと、手探り状態でいらっしゃったのだろう。とにかく多彩な演しものを観せてくださった。
 自前の常打ち小屋を持っているから、会場費なし。それどころか、公演してもしなくても家賃は発生するから、稼働率を高めたほうが得策だ。毎月第一月曜から一週間、月例公演という凄まじい公演日程だった。
 役者の生身の肉体がすぐ眼の前に実在し、そこから肉声が発せられることの現実味と意味合いとを、高校生はじっくり考えることができたわけである。
 木戸銭は三百円。小遣いの乏しい高校生でも、なんとかなった。

 今、それらのプログラムを展げて眺めると、長く記憶に残って自分になにがしかの影響を与えてくれた舞台と、記憶を辿ることはできるものの日ごろ思い出しもしない舞台と、まったく記憶に残っていない舞台との、三グループに分れる。
 有名作品かどうかとも、舞台の出来がどうだったかとも、関係なさそうだ。まったくもって当方の受取りの問題だろう。創造と鑑賞のメカニズム、表現と受容のメカニズム、伝達のメカニズムには、まことに分析不可能なものがある。

 第一グループ。秋浜悟史アンティゴネごっこ』、イヨネスコ『椅子』、ムロジェック『ストリップ』、ジャリ『ユビュ王』、宮本研『ザ・パイロット』『俳優についての逆説』。
 それに引きかえ、カミュ『誤解』、ピカソ原作をアラバールが戯曲化した『ゲルニカ』、アダプト版『ハムレット』などは、まったく記憶にない。憶えていれば、どんなにか愉しかったろうに、我が記憶力の貧弱が恨めしい。

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 センチメンタル・ジャーニーを試みたことはないけれども、今行ってみれば、おそらく町並はすっかり変貌していて、どこがどこやら判らなくなっていることだろう。

 ちなみに、新宿ゴールデン街の老舗酒場「クラクラ」店主にして、俳優・劇団主宰者の外波山文明さんは、私より二歳兄さんだが、長野県南木曽から上京して、演劇集団変身に身を寄せ、研究生修業しておられたと、後年知った。
 私が客席で、月々未知の演劇体験に息を詰めていたとき、トバさんは裏方として幕引きや大工仕事に明け暮れていたのだったろう。いや、私がもっと熱に浮かされて、そこへ飛込んででもいたら、トバさんは兄弟子だった。
 お互い、よかったね、トバさん。