一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

秋の色

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秋の色

 サークル活動の準備と打合せに来訪した若者から、お土産を頂戴した。日ごろは店頭で眼福にあづかるのみで、自分では買うにいたらぬ、秋の色だ。

 門を入ると、玄関までの間に一本だけ、立派な柿の木があって……などというお宅が、以前はよくあったものだ。このあたりでは、近年あまり視ない。立派な柿の木と聴くと、どうしても農村地帯を思い浮べてしまう。
 「柿の木にだけは登っちゃいけないよ」と、子どもに諭す習慣も、今はないのかもしれない。組織の構造上、柿の木の枝は見てくれ頑丈そうでも、なにかの拍子にポキリと折れやすく、落下事故につながりかねぬところから、子どもたちはかならず親からさよう教えられた。

 大樹を眼にする機会こそ減ったとはいえ、ちょいとした柿の木なら、ないわけではない。ほかの庭木に混じって、ひっそり実を着けている軒びさし程度の高さの木を眼にしたりする。
 春の桜もさようだが、東京の住宅事情では、大樹巨木の面倒を看るのは無理というもの。いきおい他の庭木に紛れるほどの木を愛でることになる。ふだんは通り掛っても目立たない。花を着けると、あゝ桜があったんだと気づき、実を着けると、あゝ柿の木があったんだと気づいて、歩を停めたりする。

 もと生りは食卓を飾り、うら生りは完熟まで放置されて、鳥たちの餌にでもなるのだろう。人間が好む食べ頃と鳥たちにとっての食べ頃とはズレがあるから、ちょうどいゝ。
 立派なもと生りの実までが放置されているのを眼にすると、よほど渋い種類と見えるなぁと、勝手に想像したりする。干柿にしたり、薬用酒にしたりの手間をかけるお宅も、多くはあるまい。季節は異なるが、柿の葉茶もひと頃流行の兆しがあったものゝ、やがて廃れてしまった。

 ところで、木の実類の食べ頃を察知する鳥たちの能力には、舌を巻く。鳥たちは、近在一円のどこにどんな実を着ける木があるか、すべて承知しているに違いない。にもかゝわらず、フライングして食べ頃前に手を(嘴を)出すなどということは、けっしてない。
 置場に困ったナンテンピラカンサの鉢植えを、一時物干しに置いたことがあった。好い按配に、鳥たちからはお目こぼしをいただいているかと思っていた。通りかかる鳥影も視掛けなかったからだ。が、ある朝、丸坊主になっていた。昨日までは、気もない素振りだったのにである。

 現在ピラカンサがたわゝに実を着けたお宅が、ご近所に何軒かある。今はまだ手付かずだ。ある朝、鳥たちはいっせいにやって来るだろう。むろん家主さまは、想定済みでいらっしゃることだろう。楽しみにすら、しておられるかもしれない。たぶん最初に、ヒヨドリがやって来る。

 裏庭や半日陰に、ヤツデの木を視掛ける機会も減った。実が生ると、子どもたちは柄ごとむしり取った。ひと房丸ごと口に入れ、柄を引っぱって口中を実で一杯にする。内径頃合いの細竹筒を各自所持しているから、吹矢のごとく実を発射する。ヤツデ鉄砲である。
 サッと水にくゞらせるくらいはしたのだったかもしれないが、実を丁寧に洗った記憶はない。よくも躰に障らなかったものだ。子どもの健康力は凄まじい。たゞし帰ってから母にはバレて、こっぴどく叱られた。なぜバレたか不思議だったが、唇か口角がかぶれるか荒れるか、していたのだったろう。
 今、東京の子どもたちのあいだで、そんな遊びはないのだろう。なくてよろしい。

 イチジクの木も減った。ということは、カミキリムシの採集も困難になったということだ。
 個人宅のイチジクの実は、果物屋さんの店頭を飾る高級フルーツとは似ても似つかない。が、美味い点では同じだ。
 葉にも実にも果汁にも薬効成分があり、便秘予防だったり虫くだしだったりする。戦後の赤子や幼児たちを育てるには、回虫駆除は不可欠だったから、多くのご家庭で庭の隅に植えられたものだろう。悪ガキにとっては、回虫などとりあえずどうでもよく、熟した実が美味いのと、カミキリムシの棲家であることが、貴重だった。

 若者たちと古本屋散歩の道すがら、マツキヨのポスターが眼に入って、
 「イチジク浣腸って、よりにもよって、ダサい商品名ですよねぇ」
 と云われ、面喰った。薬効とその必要性を、いやともすると形状すらを、連想できぬ時代となってしまったのかもしれない。秋である。