一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

初体験

f:id:westgoing:20211024175903j:plain


 栗ごはんを炊いた。二十五年以上ぶりだ。一人家族になってからは炊いた憶えがないし、看病・介護時代にも記憶はない。それ以前は、興味本位にあれこれ挑戦したから、その頃のことゝ考えれば、四半世紀前という計算になる。
 お土産に栗をいただいた。私のものぐさ気性を気遣ってくれた若者が、すでに茹であげて、あとは剥いて食べるだけの状態で、くださった。包丁でまっぷたつに割って、スプーンでほじって食べればよいと教えられたが、それではもったいない。飯に炊込もうと思い立った。

 外皮と渋皮を丁寧に剥いた。独居老人に気を利かせて、多過ぎぬ量をくださったから、一合五勺の米を炊くにはちょうどよい分量だ。
 さて酒と塩の按配だが、さっぱり記憶がない。たしかごく薄味の茶飯ふうに仕上げるために、醤油をほんの少々使ったのだったか。その場合、塩気はどう加減したのだったか。出汁を加えたら、味がくどくなって失敗したのだったか。いやそれは最初のときで、二度目からはよろしかったのだったか。
 かすかな断片的記憶を繋ぎ合せながら、つまりはいつものヤマ勘。他人さまに振舞うわけでもなし、どうせ自分でいたゞくのだからとの決断(断念?)に委ねた。
 たいていの場合と同じく、結果は無難な出来栄えで、満足した。

 ふと気づく。日常茶飯の家事あれこれを除いて、何をしようがかにを考えようが、久方ぶり、何十年ぶり、揚句に半世紀ぶりのことばかりだ。そしてそのたびに判で捺したように、これが生涯最後かもしれぬ、今後こういう機会が訪れることもあるまいと考える。
 老人の自覚、などと云えば聞えが良過ぎる。じつは耄碌、より正確には痴呆の一段階だ。早い噺が栗ごはんだって、出来栄えに満足したら、または納得ゆかなかったら、自分で栗を買って来て、来週また炊いてみればよいだけのことだ。ところが頭のどこか片隅に、自分はそうはしなかろうという予想が巣食っていて、実行しない自分を恕している自分がいる。自分を甘やかしているわけだ。これが典型的な老化現象である。

 初めてのこと、新しいことは身辺にないのか。あまりない。いや、ないのではない。避けるか棚上げするか、やり過すかしている。手出しせず、挑戦を避けているに過ぎない。
 自身の後始末のために、向う何年かのうちに、不動産取引をせねばならない。その前提として、戸籍上の問題や相続上の問題などを、明瞭にしておかねばならない。少々頭の痛い問題や面倒臭い問題を含んでいる。億劫だから、棚上げしてある。例のごとく、どうやったところで命までは獲られまいと、高を括っているわけだ。
 耄碌していなければ、人生初めての局面に好奇心満々、興味本位から積極的になれるはずだろうが、どうも意欲が湧かない。困ったものだ。

 とりあえずは来週、在宅でのズーム会議というものに出席しなければならない。むろん生涯初体験だ。まずこの辺から、頑張ってみようか。