一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

冷奴

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 営業再開してはみたけど。さて――?
 
 来訪して作業終了した若者たちに、少しは寛いでもらおうと、かねてより行きつけの博多屋さんへと赴いた。都のご意向で、営業再開となっていた。再開と同時に、客でごった返すかと思いきや、店内は閑散としていた。
 お帳場で店長と、つい無駄話。
 「再開できて、ひとまずホッとなさったでしょう?」
 「まぁそうなんだけど、問題はお客さんが戻って来るかねぇ。もとどおりになるまでには、相当かゝるんじゃないかなぁ。ま、そう覚悟してますよ」

 なるほど、云われてみればごもっとも。休業中の営業補償は宛がわれるものゝ、ご商売の本当の財産はそこではない。
 仕事上りに博多屋で軽く一杯。週に一度は奥さんの骨休めに家族して博多屋で食事。友達と安く愉しく過すのなら博多屋で。競馬・競艇の予想は博多屋のカウンターで焼酎をやりながら。
 お暮しぶりも動機もさまざまのお客さまが何百といらっしゃっての、客商売だ。非常時が一年半も続けば、人それぞれに新たな生活習慣を生きておられるだろう。再開しさえすればヤレヤレだ、というわけにもゆくまい。
 だが真の恢復までの営業補償などは、話題にものぼってこない。と云うより、何事によらず渡世のほんとうの秘訣は、金に換算などできようはずもない。

 伝統あるA大学の講師料は、年俸を月割り定額でくださった。試験採点や論文審査で多忙な月も、夏休み春休み月間も、同額だった。これが全国ほとんどの大学での、標準的な支給形態だろう。新興B大学では、講義一回につきいかほどという計算で、月三回出講月と五回出講月とでは、当然ながらお手当が異なった。文科省では、この方式を推奨しているらしい。計算してみると、総額は年俸制と遜色ないので、まぁいゝかで過した。

 内心釈然としていなかった。講義だけが大学ではない。ことに私のごとき、とりたてゝ学識があるでもなく、たゞ学生との教室外での付合いや自由歓談の中に、伝授いたしたき本体があるような教員にとっては、なおさらだ。
 もし名目上の表芸たる授業ゆえにのみ講師料が支給されているとなれば、私が心砕き工夫した教室外での努力は、すべてタダ働きということになってしまう。
 定年前の最後の一年間、パソコン前に腰掛けての遠隔授業なるものを経験したが、そしてそれは得難い経験だったには違いないが、それまで以上に、同様の感じを抱いた。つまりこんな教員は、大学に居場所がない時代になったのである。定年は天の采配だったと見える。

 出版界でそろそろトウの立ったゴロツキになりかゝっていた頃、英文科の教授職にあったとある先輩から、来期より文芸学科長として出向兼務することになったが、駒不足につき手伝いに来いと、お声を掛けていただいた。四十八歳だった。
 外来の非常勤教員としては、学内の専任教員が日頃なさりたくても手が回らぬ側面をカヴァーせねばなるまい。学部・学科の印刷物や学生による印刷物を漁って、眼を通してみた。あるアンケート集計記事に愕然たらざるをえなかった。

 新卒業生へのアンケート。「あなたは在学中に、教室外で教員と親しく会話する機会がありましたか?」なんと六十五パーセントの卒業見込み学生が、「なかった」と応えていた。これはもはや大学ではない。
 何を教えるかではない。学生の前に身を晒す。間違っても楽屋(講師控室)のゴミにだけはなるな。食事は学生食堂で。珈琲は学生ラウンジで。襲いかゝって来る奴は来い。まずはそれからだ。
 自分なりに覚悟を固めて、二十数年ぶりの母校へと足を踏入れたのだった。

 若き日の知性は、試し斬りを必要とする。自分のパンチが当るものか届かぬものかは、実際にパンチを繰出してみなければ判らない。打て! まず打ってみよ!
 面子か沽券かは知らぬが、お偉い教授がたがなさらぬこと。たゞ学生の前にダランとぶら下っていればよい。教師サンドバッグ説。持論はこうして産れた。それから二十五年。どうやら持論は役割を了えた。

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 博多屋さんはクーポン券を発行している。私は「通帳」と称ぶため、店員さんたちから笑われている。この通帳も一年半、財布に持ち続けた。五回来店すると、酒菜一品。この次は、冷奴がタダだ。