一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

決めつけ

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 平和は文化の問題と考えている。しかし政治の問題と考えるのが主流なのだろうか。私には理解しかねる。

 長崎の平和記念公園内に、新たに石碑を一基建立の企画が進んでいるという。原爆によって命を落した朝鮮人の御霊を鎮魂しようとの意図だという。結構なことだ。在日本大韓民国民団が中心となって、組織外の在日韓国人や日本人有志も参加しての企画だという。これも結構なことだ。

 首を傾げざるをえないのは、刻まれる碑文案だ。日本語・韓国語・英語で刻まれるそうだが、さような場合には、三か国語を綿密に翻訳・対照し合って、同文にするのが道義であり常識ではないのだろうか。
 日本語碑文には、当時長崎に住んでいた〇万人の朝鮮人が犠牲になったとあるそうだ。結構だろう。だが韓国語碑文には、当時長崎に「意に反して」住んでいた〇万人の~、とあるそうだ。英語碑文にも「意に反して」が活かされているという。これはいかがなものだろうか。

 強制徴用工問題を云う人がある。いや募集に応じた応募工だと云う人がある。私は本当のところを知らない。動かしがたい一次資料をきちんと勉強したことがない。さまざまなかたがたの主張を、情報として耳にしているに過ぎない。情報は、断じて知識ではない。

 一庶民の平凡な常識として、さまざまな場合があったのだろうと想像している。勇躍応募した者も、甘言に乗せられてやって来た者も、あったろう。なかには脅されたり、今日申すところの同調圧力を受けてウカウカやって来てしまった者も、あったかもしれない。
 両極端の実例を拾い出して、一般化した立論は、いずれも正確とはいえまい。なにせ小さな狂気が積重なって、いつの間にか制御不能の大狂気となっていった戦争期のことだ。今日の常識からは想像しえぬ実例も、あったことだろう。

 木下順二さんがドイツ人の学者と対談したさいに、こう質問したことがあった。「あなたがた賢いドイツ人が、なぜナチスの台頭を未然に食止められなかったのですか?」
 ドイツ人学者の応えはこうだった。「ある日突然ナチスが現れたのであれば、当然反対も抵抗もできたでしょう。ですが木下サン、日常の小さな変化が無数に積重なって行くうちに、気がついたら押し留めようもない事態となっていたのですよ」
 戦時下の狂気とは、まさしくそのようなものだったろう。平時の感覚で決めつけたところで、理解が及ぶはずもあるまい。

 また別の噺だが。南京の日本兵による中国庶民虐殺資料館が話題だったころ、山本七平さんは、こんなふうにおっしゃった。
 「戦時下の空気でしたからねぇ。虐殺と云われるような理不尽は、きっとあったでしょうよ。けどね多岐君、当時の南京の人口がどれくらいだったか、考えてみてもごらんなさい。二十万も殺しちゃったら、中国人いなくなっちゃいますよ」
 現在では数字が膨れあがって、三十万とも五十万とも云う人がある。

 事実は、諸説の中ほどのどこかに、計測不能のかたちであるのだろう。あらゆる決めつけには、無理が伴う。
 個人の信念や美意識の問題にあっては、決めつけもよろしかろう。例えば私が、文学とはかくあるべきものだと、力瘤を入れたところで、他人さまに迷惑が及ぶ懸念もなかろうし、第一自分自身で、これは私流の偏った考えだと承知しているのだから。
 だがこれこそが事実だと、世界に報じるとなれば、はた迷惑の誹りは免れまい。

 顧みれば、書紀であれ大鏡であれ、愚管抄であれ吾妻鏡であれ神皇正統記であれ、特定の立場から書かれた歴史である。だがそれが残れば、信頼の置ける歴史書であるかに見られることも生じる。書いたもん勝ちという側面も、たしかにある。
 その繰返しでよろしいのだろうか。近代的、客観的、合理的な知性という観点から事を処するのであれば、遠い過去のことならいざ知らず、たかだか八十年足らず以前の、まだ調べる余地がまったく無くなったわけでもない問題について、あきらかな決めつけは、拙いのではあるまいか。

 在日大韓民国民団では「強制的に連れてこられた」との原文を提案していたという。行政によるチェックが入って、「意に反して」となったそうだ。繰返すが、日本語碑文にはない。英語と韓国語の碑文にのみあるという。まだ建てられていない石碑の噺である。