一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

テメ―

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  年末近くにでもなって、冷気がピーンと音をたてるかのような朝に、我慢して襟を立てゝご近所を歩くと、微動だにせぬ強さを誇るかのように、コイツが咲いていることだろう。園芸店の店さきにも、ハボタンとシクラメンくらいしか、鮮やかな色彩を奏でるものがなくなったような時期に、ほんとうに偉大な花だと、毎年感嘆する。
 今はまだ、通りすがる人の眼を惹くこともない。だがこういう時期に眼をつけなければいけないのだと、あまのじゃくな気も起きる。

 さすがに去年今年は減ったが、自粛緩和の空気が蔓延し始めると、やがて舞込みかねないのが、同窓会の案内だ。
 クラス会は大事にしている。マスコミや芸術関係に進んだ通称「落ちこぼれ会」は、もっと大事にしている。が、学年会や同窓会総会などはご遠慮している。やたらに数が多いばかりで、お会いしたところで共通の話題もさほどない。共有する大昔の思い出噺がひとしきり済めば、あとは退屈だ。
 さすがにゴルフの自慢噺の齢は過ぎた。今は健康診断の数値の噺と、定年前の自分がいかに働き者で優秀だったかを誇る回想譚だ。

 世話好きの幹事は一斉配信メールだけでは足りずに、電話を掛けてよこす。お前が顔を見せぬのはけしからんと。少しは幹事の顔を立てる気にもなってくれと。
 なにを云いやがると、内心思う。

 なにを隠そう、同窓会に熱心だった時代もあった。各クラス一人ずつで学年に幹事が七人。うちの一人が学年代表幹事と称ばれる。上下三学年の代表幹事のうちから一名が常任幹事として、同窓会全体の幹事会に所属する。
 クラス幹事であれば年一回の宴会設定くらいでお役御免だが、常任幹事ともなれば会議や打合せだけでは済まない。学園評議員職をも兼ねるから、校長と会談したり、母校のあれこれに顔を出したりで、年に二十回ほどは出席が義務づけられる。一期が三年で、後釜の引受け手がなく、四期もやらされた。二十歳代後半から、三十歳代のおゝかたである。

 幹事職が好きな人も、世の中にはある。名刺の肩書として印刷までしていた。気が知れなかった。私は一度として、進んで引受けたことなどなかった。
 「君は時間が自由になるんだろう? 家庭もないし。今、眼が回るようなんだ、俺」
 上場企業の社員や銀行員、○○士と肩書の付く医療・法曹・会計関連の連中は、皆逃げた。フリーの貧乏ライターや、カタログ通販のコピーライターや、零細出版社の編集部員の仕事内容など知ろうという気もなく、どうせ勝手気まゝに生きているゴミと、内心では思われていたのかもしれない。

 全体幹事会に出席してほしいと、六人のクラス幹事に声掛けしても、我が学年からは私一人。同窓会総会の案内をしても、三百五十人の学年から、なんと私以外に一人か二人。先輩幹事からは、母校愛の希薄な学年と称ばれた。
 三十年四十年経つ。今ではすごい出席人数だという。分派ごとに交流会の企画を立て、名簿と連絡網を整備して、資料アルバムを準備中だという。嬉々として寄合いを重ね、自分らで勝手に副幹事だの連絡幹事だの、規格立案幹事だの推進本部だのと、非公認の役職を名乗っているようだ。
 「君が顔を出してくれないとは、解せないねぇ。手伝ってもらいたいことも、あるのになぁ」
 絞め殺すぞ、テメ―! 俺は母校のために、ニ生涯分も三生涯分も働いたぞっ。その時分のことを知りもしねぇくせしやがって。

 花々が球根か地下茎として闘いを放棄している、身を切るような朝に、独自の判断で咲いている花が、好きだ。